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アンドレアス・グルスキー展にいった(2014.2.11,大阪)

今年に入って3度目の出張は京阪神だった。
京都で週末を過ごしたあと日曜日の夜に大阪肥後橋のホテルに移動、月曜日朝から天王寺や兵庫県三木市にまで足を伸ばして仕事をはじめた。ところが翌火曜日は建国記念の日で仕事しようにも相手企業も休みなのだった。うっかりしていた。


肥後橋あたりをぶらついた
どこかで暇を潰そうと、ネットを使って夕方から梅田で映画を見る予約をしたのだがそれまでにも十分すぎる時間がある。とにかく外に出てみようかと肥後橋を歩いていたら国立国際美術館はこちら、という看板を見つけた。川沿いに歩いて行くとなかなか酔狂な建物である。いくつか展示会をやっていたが、最近はカメラを持ち歩いてはSNSに投稿する機会も増えたことだし、写真展でも見てみるかって軽い気持ちでアンドレアス・グルスキー展のチケットを買った。

国立国際美術館の建物
実のところ写真家の名前を聞くのは生まれて初めてだったし、作品もおそらく初めて見たのだと思う。だけどこれはなんか僕のど真ん中かもしれないなあ、と直感的に思ったのだ。写真のことはあまり詳しくないけど、アナログ派とデジタル派ってのに漠然と分かれてる気がする。あるいは勝負派と加工派と言い換えるべきか。つまり厳選した機材と抜群のセンスと根性でシャッターを切る。そのあともちろん現像や焼き付けを行うけど、そこからさらに加工することはあまりよろしくない、と考える人と、せっかくいろんなツールが揃ってきたんだから適宜使って望んだとおりの作品が創れたらそれでいいじゃないか、と考える人に分かれるのでは、ということだ。

アンドレアス・グルスキー展
僕はわりあいと後者だ。わりあいと、というのはそんなに拘ってるわけでもないってことなんだけど。カメラを取りだしてシャッターを押すまでの時間は平均して3秒以下である。それ以上考えたり構図を考えたりすることは、ほとんどない。なんとなく記録する。あとでパソコンに表示してみて案外面白い写真が撮れてたら、それを「その時見た風、感じた風」にちょこっと加工する。といってもMacに付属してるiPhoto以外使ったことがない。うまくいかなかったら諦める。たまにおおって思う瞬間がある。するとシャッターを切った時のこと、いやカメラを取りだした時のことを思い出し、その時目に焼き付いたシーンが再現されてると感じて嬉しくなるのだ。

だからグルスキーが自分の撮った写真を何年も掛けてデジタル加工し、望んだとおりの作品を作るタイプの芸術家だと知って、なんとなく面白いなあと感じたのだ。クラシックピアノに憧れて練習を始めた人間がいつのまにかDJに憧れていたようなものだ。いや全然ちがうぞ。そんなことはさておき、作品から伝わってくる情報の多さ、仕掛け、そこに託された情念、でも実は案外単純な美意識、とかそんな興味の尽きない作品群だった。

http://gursky.jp/highlight.html の下から2番目、カミオカンデという作品はチケットにもなってるくらいだから代表作なのだろう。日本で撮影した写真でもあるし。上の写真の入口に展示されてる黒バックに金色の丸がたくさん並んでいる写真のことです。

僕はこの作品の前で30分くらい過ごした。500円で借りたオーディオガイドのヘッドフォンからはグルスキーが選曲したという音楽が流れてきて、それを何度か繰り返し聴きながら見たからだ。この曲だ。


音楽がインド風なことも手伝うのか僕にはこの写真が次第に曼荼羅に見えてくる。
最先端の科学を研究するための地下施設が、まるで悠久の古代天竺に先人が遺した宗教施設のように見えてくる。デジタルの水面に浮かぶ小舟に乗ってただ呆然と見上げるのが僕ら現代人だ。

何世代にもわたって造り続けられた曼荼羅は天井に近いほど古代のものである。エントロピーの蓄積のせいか水面に近い比較的新しい計器よりもどこか爛熟している。壮大なスケールのSF文学を読んでいる気分になる。シラフなのにヤバい成分がカラダに入り込んだような目眩を愉しみながら僕はデジタル加工された写真とデジタル音楽が繰り出す妄想のなかでしばらく過ごした。


21世紀に生きてるんだな、と実感した瞬間だった。


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