スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

11月, 2014の投稿を表示しています

イギリスに行こうと思い立った。後先考えず行くことにした。

年末になるとJALとANAのマイル残量を妻が調べはじめるのだが、相変わらず溜まってるよねえ、なんて言いながら詳しく見ていくとなんとANAのマイルがどんどん消えていくという事実が明らかになった。2014年10月中旬のある夜のことである。 「どれくらい消えていくんだ?」と尋ねると、「そうねえ、そんな派手に消えていくわけではないけど毎月確実に減っていくことは確かね」という答えである。小心者の僕はもう居ても立ってもいられなくなってしまった。こうしている間にでも僕らの大切な財産がするすると溶けてどこかへ消えて行ってしまう気がしたのだ。ほぼ無いと言いきって良いレベルの貯蓄状況に加え、株式などともまったく縁の無い僕らにとって、航空会社のマイルとは唯一気にかけている資産なのである。 「じゃあどっか行けばいいじゃん、年内にでも」「そうだな、どこまでだったら行けるの?」「アジアでもアメリカでもヨーロッパでもいまなら選び放題よ」「そうだなあ・・・アジアはいつでも行けるしなあ。アメリカが良いかなあ。もう20年も行ってないし。でもヨーロッパも良いよねえ。てかイギリスどうだろう。これまで一度も行ったこと無いし」「行けばいいじゃない、行っちゃえ行っちゃえ。じゃあ日程決めて。いまチケット取るから。今よ。今やんないとダメだからねこういうのは」 だいたいそういった流れでもって僕のイギリス旅行はあっさりと決まった。 11月に関して言えばネット以外で実際にリアルな身体が必要となる仕事は第2火曜日と第4火曜日の夜だけだった。ちょうど11月12日に東京で会議が入っていたので、じゃあそのままタカトビするかってことになった。第4火曜日の夜までに熊本に戻れば良いわけで、つまり2週間近くも旅できるじゃないかと。 その時点では為替が大幅な円安に向かっていることなどひとつも考えなかった。イギリスの11月が寒くて暗い季節だなんてことも。 ええと、イギリスって何が有名なんだっけ、とりあえずこないだ見た映画の 「ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う!」 から類推するに酒飲みの国だよな。あとロック音楽だよな。マグナカルタ?シェイクスピア?高校の時に習った世界史は既に半分以上白地図になってしまっている。   もう日程だけ決めちゃったんだし、あとはどう楽しむかだよな、これからの1ヶ月間でいろいろ調

ステージに立ちながら僕はタイムマシンの実在を確信したのだった

リハーサルというか練習風景 ギターとか音楽について書いてる第3弾、たぶんこれでおしまい。タイトルが何やらハルキ風なのはご愛敬(最近ずっと読んでるせいです)。 あっという間に本番の日がやってきた。2014年11月2日、連休なか日の日曜日。妻の運転するクルマの助手席でもまだネタ曲を聴きながら午後1時にレストランバーに入る。本番は20時過ぎらしいからこれからたっぷりと時間がある。リハーサルというか練習である。なんせ17曲も演奏するのにバンドではまだ2回しか練習していないのだ。しかもブラスセクションに至っては一度も音合わせすることなくいきなり本番なのだそうだ。ひゃープロみたい。 ステージに上がってチューニング 3時間ほどしっかり練習する。今日はこまかなキメとか曲の構成の確認が中心である。考えてみたら1曲あたり一緒に演奏するのは多くて3回程度である。お客さんは飲み放題2,000円で来場するらしい。無料ではないのだ。気の抜けた演奏したら割れたビール瓶が飛んでくるかもしれないじゃないか。演奏中はしっかりと客を見据えてどんなものが飛んでこようが咄嗟に避けるまたは打ち返す練習をしなければならない。 20年前と変わらぬ3人。一人亡くなったことが今でも寂しい。 「じゃあ、本番は楽しんでいきましょう」とカリスマアフロT氏が宣言して夕刻にリハーサルが終わった。メンバー諸君はいったん自宅に戻ったりどこかへ出かけると店を出て行ったが僕はそれどころではない状態なのであった。お店のRoland JC-120(ギターアンプ)に突然妙なノイズが乗り始め、なんだか不穏な空気にまとわりつかれていたからだ。オーナーのアフロ氏に相談し、もう一台のアンプ(Fenderツインリバーブ)に交換することにした。音作りゼロからやり直し。しかも練習なしのいきなり本番。まいったけど仕方がない。ひとりステージに残っていろんな音を試しているうちにスタッフたちは開店準備を始めた。なぜかステージ後方の大画面にはサザエさんが映し出されやたら低音の効く音響システムからカツオの声が響き渡るのだった。 ぶっつけ本番美女ブラスセクション最高 19時過ぎ、客が集まり始める。超満員である。バンドメンバーの家族やら懐かしい顔もたくさん、それに20年前にアスペクタに出た時のメンバーもやってきてくれた。僕

僕は冷や汗をかきながら20年前に連れて帰ってきたアメリカ野郎の調教に熱中した

バンド再結成が口約束なされた証拠写真 2014年のお盆休み、自宅に遊びに来ていた甥姪を八代の実家にまで送っていくことになった。せっかくだからと久々に街に繰り出し、あちこちの店を回っているうち辿り着いたのがカリスマアフロヘアボーカリストT氏の経営するミュージックレストランバーであった。すっかり酔いの回っていた僕は勢いで20年ぶりに一緒に演奏するって約束をしていたらしいのだが実はよく憶えていない。その時にiPhoneで撮った写真があるから事実なのだろう。 この曲をやるからな、とCDが届いた ところが9月に入って間もなくカリスマT氏は僕の携帯を鳴らし、近々CDが届くはずなので練習しておくように、10月には練習を始めるからそのつもりで、と告げるのだった。よもや本気出してるとは思わなかったので狼狽えたが、まあ20年前にはできてたわけで、今回も楽勝だわあははなどと軽く考えているところに届いたCDには何やら見知らぬ曲まで含め10曲も詰まっているのであった。最初の練習は10月2日だからなって書いてある。しばらく見ないフリをしていたのだが、さすがに9月末になるとヤバいと感じて曲のコピーに取り掛かる。20年経つと世の中変わっていないようでしっかり変化しているものだ。曲名をGoogle検索すればミュージシャン本人が演奏してる動画からどこかの誰かが採譜したPDFはては運指を解説した動画までじゃかじゃか出てくる。曲名の分からない音源はiPhoneでsiriちゃんに訊けばちゃんと答えてくれたりもする。なんて楽勝なんだ、と適当にコードだけ押さえて勝ったも同然、と夜な夜な酒を飲んでしまってろくに練習しないまま練習日を迎えることになった。 本番と同じステージで練習するのだ 10月2日、台風直下の日曜日、八代のRestaurant Barステージで最初の練習が始まった。プロ級手さばきのドラムス君は26歳だという。キーボード氏はやたらと上手い。以前と変わらぬのはベース氏とカリスマアフロT氏だけである。しかも二人とも20年前に比べると格段にプロ化している空気ばりばりである。懐かしい同窓会気分でやってきたのは僕だけなのであった。なんすかこのアウェイ感は。 練習後のコーヒータイムひやひや 3時間ほど練習し、コーヒー飲みながら次回の練習は・・・なんて話題に移ると実

ギター、バンド、音楽について書いてみる

物持ちの良い僕は姉のギターをまだ持っている ギターを練習したのは中学2年の終わり頃だったと思う。その1年ほど前から姉が持っていたヤマハのフォークギターを握りしめた途端に手から離れなくなってしまったのだ。ちょうど引っ越ししたばかりで中学を転校したこともあり、親しく遊べる友だちも少なかった僕にとっては朝から晩までずっと一緒に過ごす一番の親友ともいえる存在だったのだと思う。1ヶ月もしないうちにめぼしいコードを憶えてしまいニューミュージックの曲が並んでいる教則本の端々まで弾き倒しているうち新しい学校でも「おとなしそうだけど変なギター弾き」キャラが確立されたようで、おかげで79年頃の荒れた校風の中でも特にぐれたり虐められたりすることもなく過ごせたのだった。 高校に入ってからは友人から借りたレスポールに熱中しディストーションサウンドに朝から晩まで浸かった生活となった。1年の終わりにはテープレコーダー2台をピンポンして自作曲の録音をはじめ、高2からはピアノやシンセサイザーにも手を出し、ベースを練習しドラムスに手を出し友人らとバンドを組んで演奏したり、文化祭では便利屋的にハシゴしたりしていた。 「うふふ」ライブ。1985年頃、京都の拾得にて。 大学4年間は経済学部ならぬ軽音楽部に入学した気になっていて学内の練習スタジオで生活したようなものだった。京都市内のライブハウスにも何度か出たり、PA屋の真似事をしたり下宿ではずっとMTRを弄ってたりまったくの音楽三昧だった。 ところが卒業後、仕事に就いてからはぱったりと音楽から離れてしまう。時代はバブル絶頂期、ヒット音楽といえばダンサブルなシンセミュージックばかりでギターそのものが時代から飽きられていたのかもしれない。僕も仕事が忙しくてたまには部屋でギター弾いたりしたこともあったが、もう二度と人前で演奏することなんて無いんだろうなーなどと何となく達観していた20台前半なのであった。 同じく85年拾得にて。 シンセ弾きながらギター弾いて、しかもなんと化粧してたw 25歳で8年近く過ごした京都を離れ実家に戻ると、高校生のころたくさん曲を作った部屋がそのまま残されていたこともあり、また楽器に触れる時間が少し増えたのだけどそれでもバンドをやろうってほどのことはなかった。でも不思議な縁というか営業先の歯科技