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2014.5.24-25水俣一泊旅行記

半年も放置していたがブログって書き始めると癖になるというか「あのネタを放っておいて良いのか」って気分になってしまい連続して書き始めてしまう。そのうちまたぱたっと放置するんだろうけど。 車移動は大好き というわけで4ヶ月も前の夫婦一泊旅行について書くことにする。5月24,25日の土日に自宅のある熊本市から南へ約90kmに位置する水俣市までドライブした。片道1時間半の距離である。元はといえば来日したポール・マッカートニーが体調を崩したせいである。夫婦して参加する予定だった大阪コンサートが中止となったおかげで代金が払い戻しになり、予定外の収入を得たからだ(気分的なものに過ぎないけど)。ネットで探した安い温泉旅館を押さえ、車に一泊分の着替えと柴犬とを積み込んで出発した。途中、芦北の 福田牧場スペイン村 など寄りながら午後には水俣市内に到着。 八代海沿岸の患者発生状況を示す地図 まず 水俣市立水俣病資料館 を訪れた。僕らはいわゆる意識の高い人間ということではないので環境問題や公害問題をテーマにしてここに来たわけではない。ただ水俣にやってきて公害問題を避けて通るのもどうかと思ったのと、最近ダークツーリズムに関する本を読んだばかりでちょっと興味があったからだ。時間が合わなくて語り部の話を聞くことはできなかったがそれでもたっぷり2時間さまざまな展示を見ながら2人で話し合うことができた。 水俣湾、八代海 かつて大量の有機水銀で汚染された水俣湾は八代海(不知火海)の一部である。水俣市から60kmばかり北上した球磨川の河口付近で僕は5歳から18歳まで暮らしている。子供の頃は自動車免許なんて持っていないからその距離感について考えることなどなかったが、今にして思えば目と鼻の先である。やはり父母は当時サカナの汚染について神経を使ったのだろうか。訊いていないので分からない。だが当時八代市は田中角栄らの指定した新産業都市の中核として大工場が建ち並び、市内に立ち並ぶ煙突群から濛々と煙を吐き出していた。製紙工場をはじめパルプ工場、セメント工場などはいつも刺激臭に満ち、日ごろ遊んでいた河原にはたいてい油が浮いていた。そんな時代だったわけで、有機水銀ばかりに気を取られていたわけでもなかったような気もする。 資料館の屋上には太陽光パネル 2011年をま

1992年10月に撮ったスライドフィルムをスキャンした

長い間放置しておいて突然気になり出すことがある。 このブログがまさにそうなんだけど、KOKUYOのファイルボックスにずっと沈んだままだったリバーサルフィルムケースもそうだ。たしか撮影したのは1992年だから20年以上も昔のことだが、幾度もの引っ越しに耐えてボックスの底に沈んだまま僕の部屋の一部をキープしつづけてきた。ポジフィルムだから窓に透かせば何が写っているかすぐにわかるのだけど、何となく気後れして1枚か2枚確かめてみたあと、やっぱやめとこ、と思いとどまったまま20年以上経っていた。 サンワダイレクト  フィルムスキャナー 先日、仕事の都合でフィルムスキャナーを買った。Amazonで5980円の簡単な機械だ。 2〜3日して届いたが驚くほど軽いのでこれは騙されたのでは、と一瞬不安になったがパソコンに繋げて操作してみると思った以上に高性能で安心した。 仕事に使うスキャン(これまた懐かしい20年前のネガ)を終え、勢いで気になっていたスライドケースから何十枚かのスライドを取り出し、スキャンしてみたらもう一度驚くことになった。リバーサルフィルムの色味がとても深くてなんだか名人の写真みたいに見えたからだ。 撮影したのは1992年の10月末のことだった(日付がプリントされている)。翌月に結婚することになっていた僕は、友人たちとバカげた二次会を企画し、その中で当時バラエティ番組で流行していた「ナンチャンを探せ」というコーナーを模したネタを仕込んでいたのだった。友人KとYに協力を依頼し、写真のどこかに紛れ込ませた僕の顔をいち早く見つけてくれたパーティ参加者に景品を送る、というよくある企画だった。 でも実際に撮影を始めたらすっかりノリノリになってしまい、まだ30前だった僕らは人目も憚らずカメラやギターやバカげた小物を車に積んで八代市内をロケして回ったのであった。 もしかしたらこのブログを読んでる人の中に1992年11月14日に阿蘇山中で開いた二次会に参加してくれた方もいるかもしれない。憶えていてくれるかな。今でもバカだなあという自覚はあるけど、当時の方がもっとバカだった。 おかげで二次会は大いに盛り上がった(と思う)。この場をお借りして友人K、友人Yにはお礼申し上げときます。 八代城趾から撮影を始めたのだと思う。日付は92.10.