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東京アジト大学卒業論文(6-6) 〜サラバ湯島三丁目のアジト(2014年) 〜おわり

サラバ湯島三丁目のアジト(2014年) 勉強部屋と言うより学生下宿 年を越そうかという2013年12月、母親ばかりが大学受験にヒートアップし、衝撃の「 おれ勉強飽きたし 」宣言以降はもはや他人事としてこなしている感満載の本人はただ漫然とアジトで過ごしている風であった。右こめかみから緑色の鮮血を吹き上げながら妻がスカイマーク羽田便に搭乗したのは12月26日であった。それからしばらく妻は息子の、柴男は僕の面倒を見ながら僕ら一家は日本列島に偏在しながら生活を続けていくこととなる。 こちらは僕の仕事スペース 妻が熊本に戻るとまもなく僕は東京へ。2010年の2月15日から契約しているアジトだが次の更新をするかどうか、1ヶ月前の1月15日に決めなければならないのだ。事前に家族で相談した結果、基本的には今回で契約を終了するが、3月15日まで1ヶ月だけ延長して住まわせて欲しい、ただし息子の受験結果次第ではもしかしてあと1回更新しないとも限らないので最終判断はもう少し待って欲しい、と趣旨を不動産屋さんを通じて大家さんに伝えて貰うことにした。ただ僕の気持ちはほぼ決まっていて、このアジトは 4年で卒業しようと思っていた 。このブログのタイトル通り、何となく東京の大学に進学したような気持ちになっていたからだ。4年で十分だ。それ以上残っても新たな発見は少ない気がしていたし、もちろん子供の学費やら仕送りも今以上に考えなければならなくなるわけだし。 息子と2人で通った大江戸寿司 ご本人はそんなことどこ吹く風で、 センター試験 当日になってもやる気なさそうに地下鉄に乗って出かけては、うーんイマイチだった、とかこともなげにのたまいさあ終わったから回転寿司でも食べに行こうと爽やかに言うのであった。まあ私大狙いだから気合いは抜けてたんだろうけれども。けれども。まだ20歳前だから当然なんだが、まったく酒類を口にしようとしない息子もどういうわけか居酒屋系は嫌いでは無いらしく、誘えばほいほいついてくる。4年前だと父子で食事なんて考えられなかったのにこれもアジトのおかげか。 中古で買ったNikonで夕方の不忍池 二人して部屋に居ても勉強にはならんだろうし、だいいち(ここでは)朝方の僕と夜型の息子の生活パターンはまるで合致しないのでアジトを出て外で過ごす時間が

東京アジト大学卒業論文(5-6) 〜4年生・・・まさかの同棲生活(2013年)

4年生・・・まさかの同棲生活(2013年) 自分の不注意で九死に一生 2012年の11月の末に自転車で通学途中の 息子が車にはね飛ばされる という事件が起きた。朝から顔面蒼白で日赤病院院に走ったのだが、ベッドの上のいつもと変わらぬ不満そうな高3男子を見つけて夫婦で胸を撫で下ろした。ノーヘルにもかかわらず怪我の程度はたいしたことなく入院不要とのことでそのまま家に戻されたのだが、死んでいても不思議でない事故だった。でもだからといって次の模試で偏差値が10も20も上がるといった奇跡が起きるわけでもなく平凡な毎日が続いたのであった。 お正月には高校卒業30年後の学年同窓会などに参加し、おのれの年齢を自覚させられるとともに、歳取ったところで人間そうは変わり映えがしないという現実にほっとさせられたりもした。その勢いで東京でも中学や大学の同窓会に参加したりした。いままでどちらかといえば古い友人とは あまり 付き合えてなかったのだけど、まあこういうのも悪くないな、とも思えてきた。歳を取ったのかFacebookの影響かわかんないけど。 高校の卒業式、妻は重役席に 3月1日、息子の高校の卒業式にちょっと顔を出した。大学進学を志す息子はそれまでに数多くの学校から丁重に入学をお断りされていて、今年1年は浪人生として過ごすことがほぼ確定していた。本当は学内推薦で希望する学部に行くこともできたのだが、本人はもっと行きたい大学があるので受験する、と決めていたようだ。相談された僕も「悩んだら困難な方を選べ」などと 岡本太郎ばりな 返答で格好つけたこともあり、まあ浪人したらしたでどうにかなるでしょ、こうやって生きてること自体不思議なんだから何でもありだよ、などと呑気に構えていたのだ。 知らぬ間にPTAの重役になっていた妻は式後も忙しく街中を飲んで回っていたわけで、残された僕と息子は近所の回転寿司店に行き、しかしお互い口数も少なめにただ廻る皿を追いかけていたのだが、そんなとき息子が「 東京のアジトに住んで予備校に行きたい、つきましては宜しくお願いします 」だなんて神妙にお願いするのでちょっと驚いた。へーそうなんだ、でも予備校なんてあたりつけてるのかい?と問い返すと、いやまだ何も考えていない、と。妻も僕も予備校に通った経験が無いので僕らにはうまくアドバイスできない。

東京アジト大学卒業論文(4-6) 〜3年生・・・さよならそはら(2012年)

3年生・・・さよならそはら(2012年) 年明けに陸前高田 2012年になったが何となくまだ普通じゃない感じの空気が東京を支配していた。平常に戻ることに申し訳なさを感じてしまうような居心地の悪さが漂っていた。僕はまたバスに乗って大雪の三陸に出かけていったりした。といっても本当にずっと大雪だったので屋内で写真や郵便物の清掃に終始しただけで戻ってきた。部屋を暖かくし惰眠をむさぼりいつものように夕方に向かいの居酒屋「そはら」に出かけると,珍しくマスターが弱音を吐いていた。もう来月あたり店を閉めることになるかもね、次東京に来たらもうお店は無くなってるかもしれないね、そん時はごめんね、とか生ビールを一人飲みしながら寂しく笑っていた。 それから僕のTwitterやFacebookはほとんどそはらの話題一色となってしまった。なんでそうなったのかいまだに良くわからないのだけど、妙な思い入れを感じてしまって、 webサイト作ったり 、 FBページを作ったり 、 動画撮ったり 、しまいに 曲を作ったり 、 ねこまたでもバンマスが「そはら」というタイトルの曲を作ったり した。 店じまいするそはらのマスター マスターは自分で店の片付けをはじめていて、だんだんと店の道具が箱詰めされていったりするんだけど不思議と夜になると店が開けられるのだった。9年前から通い詰めてた常連や話を聞きつけて久しぶりに来たという古い客、亡くなった奥さんのファンだったというオヤジ、バイトの中国人に気のあったおっさん、携帯電話を何本もカウンターに並べて5分に一度は店外でひそひそ話してるどうみても手配師なイケメン、芸術家志望の若者たち・・・なんだか本当にすごい店の前に住んでたんだなとあらためて感心した。 そして本当に閉店してしまった。なんか、気が抜けてしまった気分だった。 不忍池から望むスカイツリー 一方熊本では100歳を迎えた祖母が亡くなったりして、ずっと連絡を取ってこなかった従兄弟らとネットを介して家系図を再構築してみたり、以前の写真を整理したりなどという、ちょっとした振り返りモードに巻き込まれていたのがこの年の前半だったように思う。 首相官邸前 そんな流れのなかで僕は「そろそろ潮時かもな」という気分になっていった。アジトのことである。2月で2年契約を更新するか