2014年4月20日日曜日

東京アジト大学卒業論文(6-6) 〜サラバ湯島三丁目のアジト(2014年) 〜おわり

サラバ湯島三丁目のアジト(2014年)

勉強部屋と言うより学生下宿
年を越そうかという2013年12月、母親ばかりが大学受験にヒートアップし、衝撃の「おれ勉強飽きたし」宣言以降はもはや他人事としてこなしている感満載の本人はただ漫然とアジトで過ごしている風であった。右こめかみから緑色の鮮血を吹き上げながら妻がスカイマーク羽田便に搭乗したのは12月26日であった。それからしばらく妻は息子の、柴男は僕の面倒を見ながら僕ら一家は日本列島に偏在しながら生活を続けていくこととなる。


こちらは僕の仕事スペース
妻が熊本に戻るとまもなく僕は東京へ。2010年の2月15日から契約しているアジトだが次の更新をするかどうか、1ヶ月前の1月15日に決めなければならないのだ。事前に家族で相談した結果、基本的には今回で契約を終了するが、3月15日まで1ヶ月だけ延長して住まわせて欲しい、ただし息子の受験結果次第ではもしかしてあと1回更新しないとも限らないので最終判断はもう少し待って欲しい、と趣旨を不動産屋さんを通じて大家さんに伝えて貰うことにした。ただ僕の気持ちはほぼ決まっていて、このアジトは4年で卒業しようと思っていた。このブログのタイトル通り、何となく東京の大学に進学したような気持ちになっていたからだ。4年で十分だ。それ以上残っても新たな発見は少ない気がしていたし、もちろん子供の学費やら仕送りも今以上に考えなければならなくなるわけだし。


息子と2人で通った大江戸寿司
ご本人はそんなことどこ吹く風で、センター試験当日になってもやる気なさそうに地下鉄に乗って出かけては、うーんイマイチだった、とかこともなげにのたまいさあ終わったから回転寿司でも食べに行こうと爽やかに言うのであった。まあ私大狙いだから気合いは抜けてたんだろうけれども。けれども。まだ20歳前だから当然なんだが、まったく酒類を口にしようとしない息子もどういうわけか居酒屋系は嫌いでは無いらしく、誘えばほいほいついてくる。4年前だと父子で食事なんて考えられなかったのにこれもアジトのおかげか。


中古で買ったNikonで夕方の不忍池
二人して部屋に居ても勉強にはならんだろうし、だいいち(ここでは)朝方の僕と夜型の息子の生活パターンはまるで合致しないのでアジトを出て外で過ごす時間が増えていた。3月以降も東京には仕事があるわけだけど、たぶんホテル暮らしになるだろうから昼間はどこかで過ごさなければならない。毎日人と会ってばかりでもないだろうから、どこでもアジト代わりに過ごせる訓練をしておかねば。というのは自分への言い訳であって、ただ4年を過ごした上野御徒町〜湯島秋葉原界隈を去るのが名残惜しかっただけなのだろう。中古のデジカメを購入したこともあって不忍池や神田明神をうろうろする時間が増えた。


大雪の岐阜名古屋で遭難しかけた
2月になると僕は東京に、妻と息子は柴男をつれて福岡に滞在することになった。受験する大学は関東地区ばかりなのだが福岡で地方試験があるらしく、都内をうろうろするより駅前の予備校で受験できる福岡でという判断らしいが、御徒町界隈の飲み屋をほぼ制圧した妻が次は中洲だと判断した疑いが濃厚であった。一方の僕は久々のアジト一人暮らしに戻っていた。だけどなぜか部屋で仕事をする気になれずに、毎晩誰かを誘って飲みに行ったりで、しまいに終電乗り過ごして途方もない駅で朝まで過ごしたりとどこかいつもの調子が狂ってしまったようだった。アジトの魔法が切れそうなのかもしれないと思った。東京から戻るとすぐさま京都大阪名古屋に10日ばかり出張することになったのだけど、毎日分刻みでアポイントを入れ精力的に企業訪問を繰り返すハードワークぶりの自分を振り返り、僕は部屋を借りて落ち着くとどうやら仕事より生活をしてしまうらしい、仕事人としてはこれからホテル暮らしの方が正解なのでは、とも思えてきた。それに東京に部屋を借りているばかりにどうしても関東中心の営業となってしまっていたが、これからは同じ予算を使って日本全国、世界各地に繰り出せるのかもしれないぞ、と息子の進路にかかわらずやっぱり契約更新はなしだな、と確信した。


サクラサク(梅だけど)
さて2月の後半になると大学受験の結果が次々と発表されるのだが、昨年のデジャブですかという勢いで丁重なお断りを頂戴する局面が訪れていた。幸いにして1校だけ懐の広い学校があったようで、「二浪はナシだ」という我が家の憲法に従いけっして少額とは言えない入学金を振り込んだのだけど、息子は「そこへは行かないから」などと不遜な発言を繰り返す。

けっきょく「東京で後期試験があるのでもう一度受験したい」という願いが叶えられることとなり、息子は単身アジトへ。柴男と離れられない僕は熊本で自炊生活を継続しながら49歳になった。ところがその日に志望校の1つから合格通知が届いた。まさかの合格である。山梨県の方が近いという山奥の大学だがこれでひと安心だ。しかもその数日後にはもう一つの大学からも合格通知が。両方とも第一志望ではなかったらしいがまさかの展開に、口だけ番長かけ声番長の異名をもつ妻子は大喜びであった。

どちらの大学を選ぶかという、これまでには想像もつかなかった贅沢な悩みを肴に家族の遠隔地会議が進行したが、夜中に「俺、こっちに行くけん」と目をぎらつかせて息子が宣言し、決着となった。それからは妻と2人で現地不動産屋を巡るなどしてアパートも自分で決めたようだ。


赤帽2台で引っ越し
こうやって見ると荷物も増えたもんだ
さて3月11日に妻が熊本に戻ってきたが翌日には僕が東京へ。3月15日にはアジトを引き払わなければならないのだ。気が抜けてだらだらするばかりの息子は放置することにし、僕は4年分の後始末を始めた。最初は荷物部屋と寝室だけに使うつもりで始めたアジトだが、知らぬ間にいろんなブツが積み上がっていた。ギター2本もあるし。熊本に送り返すもの、廃棄するものはすでに妻が処理していたので、僕の仕事はもっぱら息子の新しい部屋に送るモノの荷造りだ。今回は赤帽トラック2台をチャーターしての引っ越し計画だ。いよいよ当日になり、早朝からゴミを捨て、荷物をまとめ、息子をたたき起こして隣県のアパートまで電車移動させる。10時にやってきた赤帽さんと協力して荷物を積み込むのが僕の役目だった。


ガランとした部屋に布団敷いて寝る
1時間も掛からずに荷物はすべて2台の軽トラックに積み込まれてしまった。ドライバーさんを見送った後、静かな部屋に戻るとまるでそこは4年前に引っ越してきたまんまの姿だった。あっという間だったけど面白かったなあと感慨にふける間もなく僕は松戸へ。仕事のミーティングなのである。その後御徒町の会社にも立ち寄って暗くなるまで仕事に専念した。夕方ふたたびアジトに戻ると急に気温が下がってきてこのまま部屋に居たら風邪をひくと判断し外に出ることとした。誰かを誘って飲んでも良かったのだけど、なんとなく独り酒もいいかな、と湯島の赤提灯に入って納豆オムレツ食べながら生ビールを傾けていたらわずか一杯ですっかり満腹になってしまった。でもどうせだからもう一軒くらい行っとくか、とぶらぶら歩いたのだけど、早朝からの肉体労働と移動で眠くなってきてしまった。福錦のレタスチャーハンでしめてアジトに戻り、寝付いたのはまだ21時であった。


不忍池、ほんとにサクラサク
当然のことながら夜半過ぎには目を覚ましてしまった。寒かったことも手伝い、そのまま朝まで寝つけなくて布団の上でこのブログを書き始めた。2011年のところだ。古い写真とか引っ張り出して思い出していたらあっという間に朝だった。良い天気だ。不忍池まで歩いてみると雲ひとつない青空に少しずつ咲き始めた桜が美しく輝いていた。
最後のランチはむかいの「デウラリ」というインドレストランで食べることにした。「そはら」の後にはいったお店だ。満腹を抱えてアジトに戻るとほどなく不動産屋さんが現れ、最後の引き渡し儀式。鍵をお返しして、4年と1ヶ月にわたるアジト生活を終えた。

さて、以上6回にわたってお送りいたしました東京アジト大学卒業論文を終わります。論文というわりに結論や考察はございません。これから時間をかけてゆっくり咀嚼していくことになるだろうからです。
過去のスケジュールを拡げてざっくり計算してみたところ、4年と1ヶ月間(1490日)のうち僕がアジトに泊まったのは396泊でした。つまり26.6%をアジトで寝泊まりしたわけです。4年間に支払った家賃総額(敷金や契約更新費含まず)をこの日数で割ると1泊あたり10,101円となりました。ううむ、ビジネスホテル並みか。でもこれに加えて息子の1年間や妻の滞在も含まれているのでそこまで計算に入れると5,089円となりまして、まあ経済合理性はあったかなと。


サラバ、湯島三丁目のアジト。
でも本当はそんなことより、40代の半ばを過ぎた男が妙な運命の巡り合わせで、エキサイティングな日々を過ごせたことがいちばんの奇貨だったようです。ここへ来ることなく熊本でのんびり暮らしていたら、それはそれで楽しかったのかもしれないけどいまの僕らの生活はなかったのだと思います。東京で暮らしたこと、大きな地震を体験したこと、ここを起点としてあちこち出かけたことで僕の考え方も少し変わりました。もちろんいま手掛けている仕事についても。

これからは大学生となった息子がそんな新しい刺激を受けながら自分の人生を掴まえていくのでしょう。妻や僕や柴男はそんな若い連中に負けないようこれからもあちこち出かけては生活を楽しんでいければと考えております。
発動の機は周遊の益なり。

長い文章にお付き合いくださった方、ありがとうございました。

2014年4月13日日曜日

東京アジト大学卒業論文(5-6) 〜4年生・・・まさかの同棲生活(2013年)

4年生・・・まさかの同棲生活(2013年)

自分の不注意で九死に一生
2012年の11月の末に自転車で通学途中の息子が車にはね飛ばされるという事件が起きた。朝から顔面蒼白で日赤病院院に走ったのだが、ベッドの上のいつもと変わらぬ不満そうな高3男子を見つけて夫婦で胸を撫で下ろした。ノーヘルにもかかわらず怪我の程度はたいしたことなく入院不要とのことでそのまま家に戻されたのだが、死んでいても不思議でない事故だった。でもだからといって次の模試で偏差値が10も20も上がるといった奇跡が起きるわけでもなく平凡な毎日が続いたのであった。

お正月には高校卒業30年後の学年同窓会などに参加し、おのれの年齢を自覚させられるとともに、歳取ったところで人間そうは変わり映えがしないという現実にほっとさせられたりもした。その勢いで東京でも中学や大学の同窓会に参加したりした。いままでどちらかといえば古い友人とはあまり付き合えてなかったのだけど、まあこういうのも悪くないな、とも思えてきた。歳を取ったのかFacebookの影響かわかんないけど。


高校の卒業式、妻は重役席に
3月1日、息子の高校の卒業式にちょっと顔を出した。大学進学を志す息子はそれまでに数多くの学校から丁重に入学をお断りされていて、今年1年は浪人生として過ごすことがほぼ確定していた。本当は学内推薦で希望する学部に行くこともできたのだが、本人はもっと行きたい大学があるので受験する、と決めていたようだ。相談された僕も「悩んだら困難な方を選べ」などと岡本太郎ばりな返答で格好つけたこともあり、まあ浪人したらしたでどうにかなるでしょ、こうやって生きてること自体不思議なんだから何でもありだよ、などと呑気に構えていたのだ。

知らぬ間にPTAの重役になっていた妻は式後も忙しく街中を飲んで回っていたわけで、残された僕と息子は近所の回転寿司店に行き、しかしお互い口数も少なめにただ廻る皿を追いかけていたのだが、そんなとき息子が「東京のアジトに住んで予備校に行きたい、つきましては宜しくお願いします」だなんて神妙にお願いするのでちょっと驚いた。へーそうなんだ、でも予備校なんてあたりつけてるのかい?と問い返すと、いやまだ何も考えていない、と。妻も僕も予備校に通った経験が無いので僕らにはうまくアドバイスできない。とりあえずiPhoneでいろいろ検索してみたあと、そういえば僕の従兄弟にむかし浪人生活を堪能してたツワモノがいたっけ、たしか東京に住んでるはずだけど、とメールでヘルプを送ってみたり。
どこにもつけ入る余地がなさそうだ

その4日後、3月5日にはもう息子と一緒にスカイマークに乗っていた。翌6日にはくだんの従兄弟と神田で落ち合い、ランチをご馳走になりながら予備校や浪人生活についていろいろとアドバイスを受けた。きけばその筋では有名な会社の創業社長さんだそうだ。息子よもう浪人諦めてその会社でバイトしろ、あわよくば就職できるかもしれんぞお前ゲームとか得意分野だろ?と半分マジで言ったのだが無視されて哀しかった。


アジトキッチン部門が整備された
いろんな知り合いに予備校事情の取材と称して一緒に飲んだり、実際に御茶ノ水の予備校に見学に行って入学案内を貰ってきたり、電気街で冷蔵庫だ電子レンジだと買い物したりと忙しく過ごした後アジトに息子ひとりを残して僕は熊本に戻った。そんなわけであれよあれよという間に息子にアジトを乗っ取られていた。妻も妙にこのプランにノリノリで、僕一人の時は完璧に無視してくれてたのに息子が住むとなるといきなり自炊調理関係の整備が必要だとか寒いから布団を送るだの洋服ダンスがどうのとすっかり子離れできてない親バカ全開なのあった。

ケルンで開催された大きな展示会に合わせて得意先とヨーロッパを回ったりしたあと3月の末にまた東京に戻ると、アジトは18歳男子の住む部屋として非常にスタンダードなとっ散らかり具合に変わり果てていた。洗濯はきちんとやれ、ゴミは捨てろ、家具は組み立ててから使え、マンガは買うな勉強しろと説教していたら、生活準備のためにいったん熊本に戻りますからと熊本に飛んでいった。これまでのようなアジト一人暮らしに戻ると今度はなんだかつまんなく感じてしまうから妙なものだ。


柴男もアジトに
一方熊本に戻ると息子が居なくなって妻と柴犬だけの生活が待っていた。思ってたほど妻が寂しがることもなかったのは、ここぞとばかり僕らふたりで遊び歩いたからだろうか。5月の大型連休には犬連れクルマ移動で熊本から神戸(僕は北海道出張から神戸で合流)、京都(大学ゼミの同窓会とか)、名古屋、群馬(妻の実家)とドライブを楽しんだ。群馬の実家には息子も合流し浪人という身分を忘れさせるほどリラックスしやがって、帰りは東京まで3人+柴男でアジトへ。3年前僕一人で「別居なう」なんて呟いてた部屋に全家族が揃うという不思議な展開となっていた。


学資保険がソーラーパネルに・・・
5月には息子の大学進学に備えて積み立てていたお金を使って自宅の太陽光発電パネルを敷いたりした。来年本当に大学に受かったらどうしようって思わなくもなかったが、まあFITの期限もあるしねえ、あとはどうにかなるでしょうとこれまた楽観的に。また5月末からは本格的にスポーツジムに通い始めた。もともと妻が通っていたのだが極度な運動嫌いの僕がなぜかハマってしまい、熊本にいるときはほぼ毎日筋トレと水泳に通うという自分でもにわかに信じられない思想信条の転向を経験することになる。といっても気分転換と風呂代わりなんだけど。

あまちゃん
聖地巡礼である

この年の特筆すべきことはもう一つ「あまちゃん」である。これまで朝の連ドラとか絶対に見ない派だった夫婦が二人して一日4回は繰り返し見るほどの没入具合に仕上がった。これについて語り始めるとキリが無いので止めときますが、ただ1点だけ、ドラマの中で主人公がアメ横の出てくるのは僕がアジト生活をはじめた2010年ときっちり同じなのです。聖地まで場所も近いし、そんなところでも僕らはすっかりクドカンの世界に浸って生活していた。
勉強するフリの坊ちゃま

他にも僕らは夫婦で山口の萩に旅したり、台風直下の石垣島にマイレージ消化に出かけたりと息子の居ない隙にと多忙を極めていたのであるが、すっかり移動癖のついた妻は9月末から「参勤交代」と自称してアジトに通うことになる。きっかけは予備校から届いた一通の成績表であった。なんと高校3年時よりも全国平均で落ちていた。その上予備校をサボりまくっていたことが判明。こめかみの血管から緑色の血を噴出する獣と化した女が空港に向かうまでさほどの時間は不要であった。いったいどれほどの執念で息子の身の回りの世話に注力されたかについては彼女のブログを参照されたい


朝飯前とはこのことだ
犬に面倒見てもらっている以上、家族三人がアジトに行くわけにもいかん。誰かは熊本に残らねばならぬというので、当然自由業である僕がその大役を仰せつかる日数が増えていくわけです。同時に主婦力もめきめきと向上し朝飯から掃除洗濯犬の散歩(風呂はジムですますけど)お買い物からゴミ捨て回覧板、ついでに仕事と去年までの僕はいったいどこへ行った?的な展開に飽きる間もなかった。


食うわ食うわ
そうこうするうちあっという間に年末になっていた。Paul McCartneyコンサートに出かけたり、久しぶりに三陸海岸を走ったりしながら全国の取引先に顔を出してはミーティングを繰り返してはひそかに来年からの事業展開の準備を続けていたのだが、それなりにメドも感触も得られてきたので僕としてはとても充実した1年となりそうだった。しかしここで息子の成績はといえば子は親の鏡とは良く言ったものでヤツも秋葉原界隈で遊び回っているらしくどうしたらこういう点数の取り方ができるのだ?と親が心配するレベルのデフレスパイラルを更新していくのだった。

僕ら両親はこのままでは息子の人生はどうなってしまうのだろう、と心配で心配で堪らなくなり、もう居ても立ってもいられなくなって二人で台湾旅行へ出かけることにした。その詳細についてはこのブログに書いているのでそちらのページに譲りたい。

アジト3年目はこのように家族3人のそれぞれの生活に大きく変化を与えながら、いつもその中心にあの402号室が見え隠れしているのであった。これも不思議なアジトパワーだったのだろうか。

さて次はいよいよ最終回となります。

2014年4月6日日曜日

東京アジト大学卒業論文(4-6) 〜3年生・・・さよならそはら(2012年)

3年生・・・さよならそはら(2012年)

年明けに陸前高田
2012年になったが何となくまだ普通じゃない感じの空気が東京を支配していた。平常に戻ることに申し訳なさを感じてしまうような居心地の悪さが漂っていた。僕はまたバスに乗って大雪の三陸に出かけていったりした。といっても本当にずっと大雪だったので屋内で写真や郵便物の清掃に終始しただけで戻ってきた。部屋を暖かくし惰眠をむさぼりいつものように夕方に向かいの居酒屋「そはら」に出かけると,珍しくマスターが弱音を吐いていた。もう来月あたり店を閉めることになるかもね、次東京に来たらもうお店は無くなってるかもしれないね、そん時はごめんね、とか生ビールを一人飲みしながら寂しく笑っていた。

それから僕のTwitterやFacebookはほとんどそはらの話題一色となってしまった。なんでそうなったのかいまだに良くわからないのだけど、妙な思い入れを感じてしまって、webサイト作ったりFBページを作ったり動画撮ったり、しまいに曲を作ったりねこまたでもバンマスが「そはら」というタイトルの曲を作ったりした。

店じまいするそはらのマスター
マスターは自分で店の片付けをはじめていて、だんだんと店の道具が箱詰めされていったりするんだけど不思議と夜になると店が開けられるのだった。9年前から通い詰めてた常連や話を聞きつけて久しぶりに来たという古い客、亡くなった奥さんのファンだったというオヤジ、バイトの中国人に気のあったおっさん、携帯電話を何本もカウンターに並べて5分に一度は店外でひそひそ話してるどうみても手配師なイケメン、芸術家志望の若者たち・・・なんだか本当にすごい店の前に住んでたんだなとあらためて感心した。

そして本当に閉店してしまった。なんか、気が抜けてしまった気分だった。

不忍池から望むスカイツリー
一方熊本では100歳を迎えた祖母が亡くなったりして、ずっと連絡を取ってこなかった従兄弟らとネットを介して家系図を再構築してみたり、以前の写真を整理したりなどという、ちょっとした振り返りモードに巻き込まれていたのがこの年の前半だったように思う。

首相官邸前
そんな流れのなかで僕は「そろそろ潮時かもな」という気分になっていった。アジトのことである。2月で2年契約を更新するかどうか決めなくてはならなかった。ずいぶん迷った挙げ句、あと2年住んでみることしにた。もっと安い物件に移ろうとか湯島以外の場所に行こうかとか、いろいろ考えたのだが結局はこのまま更新することにしたのだ。

国会議事堂前再稼働反対デモ
東京スカイツリーが竣工したのはそんなころだ。3.11から1年後には熊本で誘われてライブ企画を手伝ったりもした。5月の連休はひとりで東北をうろうろする「みちのくひとり旅」を楽しんだ。他にもアジトを起点に全国あちこち飛び回って仕事していた。6月と7月にはニュースでも話題になっていた首相官邸前の原発再稼働反対デモに出かけてみたりもした。

新大久保の街を歩く
浅草ほおずき市
首都東京は次第に元気を取り戻しているように見えた。蜘蛛の子を散らすように消えていた外国人観光客も戻ってきていた。熊本に戻るたびに自動録画していた「ブラタモリ」と「吉田類の酒場放浪記」を観ながらiPadの地図アプリで東京の街をうろうろしながら焼酎を飲むのが僕ら夫婦のちいさな愉しみになっていた。一時はもう日本も東京もダメになってしまうんじゃないかってすら思えたこともあったけど、これらの番組に映し出されるちょっとした横丁の風情や古い居酒屋の雰囲気を眺めていると、街のエネルギーってのはそんなにヤワじゃないし、大切なものなんだなと思えたのだった。

ベランダの前で街路樹が切られた
3331で夕涼み
アジトから歩いてすぐの3331で夕涼みしたり、不忍池の夕焼けをただ呆然と眺めたり、目の前の道路に佇んでいた街路樹が切り倒されるのを寂しい気分で写真撮ってみたり。一昨年の仙台に続く福岡での大きな学会の仕事があったし、軽井沢や沖縄や北海道にもたびたび出張した。

この1年間は相変わらず東京という街を愛でつつも、アジトを起点に全国に両手を拡げていった年だった。ほんと大学の3年生って感じ。

3年生といえば受験生だった息子が大学進学したいというので8月のはじめに妻とアジトに滞在し、あちこちにオープンキャンパスを見にいくことになった。妻としては久々の東京生活を楽しめると同伴を決め込んだようだが、毎日のように親子げんかの連続だったそうだ。だけど結果として僕の仕事部屋だったアジトは翌年ほぼ母子に占拠されてしまうのだった。

秋になると溜まっていたマイルを使ってベトナムひとり旅に出かけた。1週間ばかりホーチミンからカンボジアまでバスなど使ってうろうろしただけなんだけど、やっぱり世界は広いなと実感できたし、体力さえあれば世界中どこででも仕事できてしまうという体験もできた。

不忍池の夕暮れ
正直に言えばそろそろアジトで生活する理由を見失いかけてたのが2012年だったように思う。いわゆるマンネリだったのだろう。たしかに湯島での一人暮らしは快適で気楽だったし、それなりに刺激もあり、仕事のチャンスも少しずつだが拡がっていた。それでも僕はここに出てきてころの新鮮さを忘れかけていたし、むしろ無理矢理にでも東京で生活することの意義や成果を出そうとあせっていたのかもしれない。


アジトの仕事環境
人間の暮らしや生活というものはただその街や部屋や仕事にだけ寄りかかるものではないようだ。馴染みのお店や常連客、もしかしたら毎朝すれ違うだけの見知らぬ人々までをすべて含んだボワっとした情報の固まりの中に居るとき、僕らはそこに代替不能な何かを感じているのだと思う。

そんな意味でも僕のアジトは思った以上の速度で変わっていったのだった。