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東京アジト大学卒業論文(2-6) 〜1年生~はじめての東京生活(2010年)

1年生~はじめての東京生活(2010年)

2010年2月17日、羽田空港から意気揚々と秋葉原駅へと移動した僕は得意満面で湯島三丁目方面へ。不動産屋さんに行って部屋の鍵を貰うのだ。いよいよ我がアジトに潜り込むのだ。待ちに待った新天地での新生活。膨張する妄想。万能感。解放感。

だがしかし。不動産屋さんに到着するやいなや閉店の嵐であった。鍵がかかっていて誰もいない。電話しても誰も出ない。逃げられたか。詐欺か。慌ててiPhoneでサイトを確認したところ「毎月第3水曜日は定休日です」ってたしかに書いてあるではないか。迂闊に過ぎた。

代々木上原に泣きつく
浮かれすぎなおのれを反省し、強引に近所の取引先数軒に押し込み挨拶するなど実直な仕事を始めるがすぐに飽きた。湯島駅から千代田線に潜ると当時代々木上原駅ちかくに診療所を構えていたバンマスに泣きついて近隣蕎麦屋で焼酎で乾杯だ。そのまま梅ヶ丘のご自宅に流れてそのまま泊めていただく江戸生活初日となった。これまさに試練である。あ、バンマス夫妻に、です。

別居、なうツイート
翌朝、再び満を持して湯島の不動産屋さんで鍵を預かり、ついにアジトへ。いよいよ儚い夢が叶えらるぞ俺。実のところどうしてもやってみたいことがあったのです。2009年、頸椎ヘルニアで伏せながらベッドで覚えたのがTwitterとFacebookだった。特にTwitterは熊本の若者たちとか業界内の若手とかとふざけた交流が始まってて、(いまでは考えられないけど)和気藹々というか緩くて楽しいコミュニティがちょっとした生活の楽しみになったりもしてたのだ。そして僕がどうしてもやらかしたかったのは「別居、なう。」ツイートであった。

案の定というかまんまと「どうしたんすか!?」「いったい何があった!」的な反応が相次ぎ、やったーしてやったりだぜ、と熊本にいる妻と2人して「実はね〜」なんてレス返しで無邪気に楽しんだり。


江戸の先住民をこき使うの図
机も椅子もないがらんとした部屋にMacbookとモバイルWi-Fiルータをもちこみ、床に座りこんでメールを書いた。なんかこう無駄にモチベーションもりもりでナチュラルハイなこの感じは、高校出てすぐに京都の下宿でもがいてたあの頃の自分そのものだ(実は明日このアジトを出るのでまったく同じ状況でこれ書いてたりします)

近くの関係企業あちこちに顔を出したり、御徒町の多慶屋まで幾度も調度品調達に出かけたり、夜は湯島駅から千代田線つかってまたもバンマスの住む梅ヶ丘でベース弾いたり。都会に浮かれる田舎者を絵に描いたような生活が全開まっしぐらにスタートしたのであった。


二度目のアジト入りは翌月3月。しかし試練はまだまだ僕を掴んだまま放さなかった。それまでの20年間、出張といえばビジネスホテルですからして、東京に部屋の鍵を持っていくなんて発想はこれっぽっちもなかとです。アジトのドアを前に呆然と立ち尽くす俺です。

鍵がないと普通ドアは開かない
不動産屋さんに同じビルの最上階に住むオーナーさんの携帯番号を教えてもらい、何度も電話するが通じない。仕方がないので近くのファミレスで晩飯たべたり仕事してるうちに21時を回り、ようやく電話が通じて鍵を借りることができてなんとか二回目のアジト潜入。まだまだ魔力全開だ。

春休みには妻もアジトにやってきた。学生下宿をチェックに来る母親のようだったが彼女は大学時代の旧友と朝まで飲むという目的を果たして満足げだった。4月1日、二人で上野恩賜公園に満開の桜を見にいった。昼間からビールを空け、僕らは江戸の華に酔った。

毎月来るたびにちょっとずつ家具や小物を買いそろえていくのだけど、どういうわけかテレビだけは買わなかった。新聞も取らなかった。いくら東京が人だらけだといったって毎月毎晩相手してくれるほど知り合いもいないから、部屋でぼーっと過ごす夜の時間も増えていった。そんな時の相棒は文庫本だった。いつのまにか読書家に変貌していた。いつも10冊くらいの本を抱えて熊本東京間を往復する書生野郎になっていた。四半世紀前のリアル学生時代だった頃には想像もつかないことだが僕は活字に溺れた。これもアジトの魔力のひとつだったのかもしれない。
この頃から業界内iPad伝道師に

5月の末には僕の相棒にiPadが加わった。アップルから発売されたばかりの魔法の板は僕の仕事スタイルを変えたばかりか、タブレットコンピューティングの伝道師的な仕事まで連れてきてくれた。

スカイツリーが伸びていく
一方で朝の散歩も趣味に加わった。日に日に気温が緩んでいったり、朝日の昇る位置が動いていくのを感じるのが嬉しくなった。不忍池に繋がる裏道の猫と知り合いになった。ケバケバしい飲食街にも訪れる朝はゴミとカラスばかりだけどキラキラした光の点に溢れていた。不思議とここでは散歩時にイヤフォンする気になれなかった。目の前の景色や騒音や匂いを取り入れるのに音楽やトークに邪魔されたくなかったのだ。デジカメを持ち歩くようになった。来るたびに東京スカイツリーが伸びていくのが面白かったからだ。

カウンターで独り呑み
大学時代の旧友や業界のいろんな名物男たちと飲んでばかりいた。そのうち仕事の話よりいろんなお店に行くことが目的に変わってきた。一人で食べるランチやガード下の居酒屋での独り飲みも格別だった。近隣地図に自分の入った店をマーキングするのが楽しみとなった。


SJCD合同例会仙台
もちろん仕事もたくさんした。この年の7月に仙台で大きなイベントの仕事があったため、上野駅から何度も東北新幹線に乗った。ほんの数時間列車に座っているだけで空気の温度ばかりか密度までが異なる北の空気に魅了された。すごい臨床家たちなのに小難しいことばかりいう僕を歓迎してくれ、そんな心優しき東北人たちに囲まれてるうち日本酒の味を覚えた。

7月のイベントが成功に終わると今度は9月には由緒ある業界団体での講演を依頼されたりした。九州を出て東京にちょこっと住んでみただけで勝手に世界が拡がっていく感覚にくらくらした2010年だった。

まるで大学に入学したばかりの若者が抱くような、大いなる高揚感、そりゃ誤解に決まってるさって判ってるんだけど、もう止められないぜって気分の1年があっという間に過ぎていった。


次回は東京アジト大学卒業論文(3-6) 〜2年生・・・311で一変した東京(2011年)です。

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