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東京アジト大学卒業論文(3-6) 〜2年生・・・311で一変した東京(2011年)

2年生・・・311で一変した東京(2011年)

大雪の多い2011年の東京だった
僕にとって東京生活2年目となる2011年は大雪から始まった。熊本では得られぬ積雪の景色にすっかりカメラ小僧と化していた僕は興奮し靴をぐちゃぐちゃにしながら朝の散歩を楽しんでいた。

3月10日、川崎市での仕事を終えた僕は新橋の居酒屋で友人社長と二人で飲み始め、日付が変わる直前まで青臭い意見をぶつけ合って喜んでた。すっかり酩酊してアジトに戻ったのだがどういうわけだか目が覚めてしまい、YouTubeの海をさまよったりして妙な気分だったのを覚えている。

翌日つまり3月11日、僕は近くの沖縄料理店でお腹いっぱいのランチのあとアジトに戻って仕事を始めようとしたその矢先に前触れもなく大地が揺れたのだった。数日前にも少し大きな地震があったのでちょっとだけ覚悟していた気がする。すぐにラジオをつけた。デジカメを手に取り動画モードにして撮影を始める。ずいぶん長いこと揺れていた。収まったと思ったらまた揺れ始める。ベランダから道路を撮っていた僕は、このままベランダが落ちるんではないかと恐怖した。パソコンのディスプレイが机から落ちそうになるので片手で押さえながら撮影を続けた。

ラジオは東北で地震が起こった、と繰り返し伝えている。サイレンが鳴り響き、遠くの空に黒煙が立ち上っていた。さっきまで良い天気だったのに文字通り暗雲が立ちこめ、冷たい風が吹き始めた。天変地異だ、これはただならぬことだとすぐに判った。携帯電話は通じなかったがTwitterが生きていたので、とにかく無事だと何度か呟いた。

3.11の夜は帰宅難民たちが歩き続けていた
つい何日か前にiPad用のワンセグチューナーを買ってたのを思いだし、テレビに切り替えると想像もつかない光景が放送されていた。津波である。ベランダから下を見下ろすと地下鉄千代田線出口から次々と排出される人間の行列が続いている。建物の様子を確認しなければと僕も外へ出てみる。エレベーターは恐いので階段で降りるが大きなひび割れなどは見当たらないようだ。少しずつ暗くなっていくあたりには途切れない道路渋滞と歩き続ける人々が黙々と連なっている。どこのコンビニからも食べ物が消えていた。食べるものを確保しなきゃとは思ったが食欲はなかった。部屋に戻ると仕事で使っていたUstreamの機器でワンセグのTVニュースを無許可配信したりした。Twitterで見知らぬ人たちと情報交換し、頑張ろねと励まし合った。

そはら
日が暮れたのでアジトの向かいにある「そはら」という居酒屋を訪ねると、帰宅を諦めた多くの常連客がいつものように飲んでいたのでほっとした。この頃には僕もすっかり常連の一人だったのだ。マスコミOBが多かった常連たちは口々にこの一大事を語っているのだが、なぜかマスターだけが少し気落ちしているように見えた。テレビが福島第一原発の異常事態を伝えた直後、彼が「あーもうダメだな」と言い捨てたのが気になって常連の誰かと目を合わせると、彼はマスターが福島出身で東電のOBなんだと教えてくれた。ほとんど何も報道されていなかったこの時点で彼はこの後起きるであろう出来事をほぼ予想していたようだ。たぶん俺たち年寄りが特攻して止めるしかもうないと思うんだよね、まあこうなったのも俺らの責任だからね、と言いながら皿を洗い続けていた。

早朝から待った始発が来たのは9時前

銀座線を筆頭に首都の交通手段が復活し始め客はそれぞれの家に戻っていった。僕も今日ばかりは酒を飲む気になれず道路を渡って部屋に戻ったのだが、朝までずっと余震が続き、そのたびに携帯電話やラジオから流れる緊急地震速報でほとんで眠れなかった。

3.12朝、人間が溢れていた
翌朝、羽田空港から福岡へと飛ぶ便を予約していたのだが、6時前に秋葉原駅に行ってみたが始発が来たのは9時前、フライト時間はとうに過ぎていた。諦めて品川駅で新幹線に乗ろうと自販機への長い行列にひたすら並ぶ。その間も余震で駅舎は轟音を立てて揺れている。恐ろしい数の人間たちがきちんと行列を守りながら溢れていた。日常では考えられないことだけど、見知らぬ人たちと目が合えば情報を交換し、励まし合いながら僕らは首都から脱出しようとしていた。

3.12東海道新幹線車内
僕は福岡の大学で外せない仕事がありどうしても移動しなければならなかった。ようやく乗れた新幹線は名古屋あたりまで満席、僕は通路に踏ん張りながら座っている客が持つ新聞記事を呆然と盗み読みしていた。

3.12は九州新幹線開通日でもあった
新大阪で乗り換えると空気が嘘のように入れ替わった。笑顔の家族客たちが僕の乗る車両に一斉にカメラを向けるのだ。今日が九州新幹線全線開通日だとようやく思い出した。どうにか座れた僕はMacBookで仕事しながらもTwitterでずっと津波や原発のニュースを追いかけた。

こうしてこの日を境に僕のアジト生活はがらりと様相を変えてしまった。前年までの高揚感はどこかへ飛んでいってしまった。東京はもとより日本列島全体が以前とは違う状況にあると実感した。生活も経済も仕事も家庭も根本から立て直さないといけないと痛感た。遊び歩いてる場合ではないという空気がこの国を覆っていた時期でもあった。

熊本に戻ってからは妻と朝まで話し続けた。感情的になり涙にくれることさえあった。僕らなりの結論が出たのは十日以上あとだった。僕は東京に戻ることにした。僕らの世代には責任があると思った。遊び暮らしてきた責任がある。無茶したのは他でもない僕らまでの世代だ。息子の代までツケを残すのは卑怯だ。マスターの言ったとおりだ。

3月末に戻った東京・秋葉原
何をどうしたらよいかさっぱり判らないけど何かを終わらせ何かを解決する義務のようなものを感じていた。逃げるのは僕らのやり方に合わない。東京に戻るのはその糸口を見つけるためだ、と考えた。

3月26日夜、僕は再び秋葉原駅に立った。ほんの半月前とはまるで違う光景だった。真っ暗だったのだ。華やかな電気街は電飾のほとんどが節電の名の下に消灯されまるで空襲警報でも発令されたかのようだった。人々は看板の消えた店の奥に固まって額を寄せ合って飲んでいた。僕もその中に混じったのだが聞こえてくる会話はすべて原発・津波・地震、だった。それに外国人がほとんどいなかった。店員も、客も。とにかく異様だった。
5月の連休は東北へ

1ヶ月後の大型連休、僕は熊本の知り合いらと連れだって東北に出かけることになった。彼の親戚が被災したとのことでお見舞いに行くのに付き合うという理由だが、去年さんざんお世話になった仙台の先生たちや東北各地の取引先の顔も見たかった。

相馬の海
実際に自分の目で見た津波の惨状は想像を超えていた。まるで戦場だ、グランドゼロだと思った。未来を見た気がした。海の底がちょっと揺れただけで僕らの命や生活はあっという間に激変するのだと実感した。誘われるがまま福島の相馬に行ってボランティアの真似事も経験した。自らの手で目の前の瓦礫を片付けることで少しずつ解決に近づいていくことの凄さに驚かされた。テレビをつけると朝から晩まで繰り返される「絆」なんて言葉の嘘くささよりも、何かの縁ができてしまったらもう仕方ねえやできることならなんでもやっちゃうよ、的な若者たちの純粋さに心を打たれた。

郡山のらーめん屋
友人らと別れたあと僕は仙台、山形、福島、郡山と泊まり歩きながら現地の取引先と酒を飲みいろんな話を聞いて回った。皆一様に傷つき疲れていたけど、それでも元気だった。本当の当事者でもない僕が神経質になってるのはなんか違う、と思った。

久しぶりに湯島の部屋に戻ると、やっぱりここをアジトにしよう、と思った。こんな時期に東京に部屋を借りているのも何かの縁だし、暇とお金がある限りここを拠点として東北に遊びに行こう、と思ったのだ。
7月、南三陸町

7月の志津川
7月は新幹線で仙台に行き、仙台駅出発のボランティアバスで南三陸町へ。小雨の中全国から集まったオジサンオバサンらとスコップを担いだ。次の日には仙台の知人のクルマで三陸海岸を案内してもらい場所それぞれで被害の様相がまるで違うことを知った。

お盆休みは家族で妻の実家に行くことにした。フェリーで東京まで移動しそこから関越自動車道で群馬県のみなかみ町へ。涼しい温泉地でしばらく過ごした後、アジトに戻って家族3人川の字で寝たりした。今度は妻も東北へ行くといいだし、東京駅前からひとりでボランティアバスに乗り陸前高田に出かけていった。

8月、秋葉原でライブ
春に東北へ行った友人や東京のバンマスらと秋葉原でジョイントライブをやろうと企画し、僕は3つのバンドで演奏したりもした。部屋にいろんな楽器を背負ったメンバーが入れ替わり立ち替わりやってきては、あ、初めまして、なんて挨拶する様子を見ながらまさにここはアジトだ、と思った。

東京駅からバスに乗る
11月になると熊本で加盟している同業者組合を組織して東北旅行を企て、会津若松や鳴子温泉で大名旅行。次の週にはまた東京駅からボランティアバスに乗って僕も陸前高田市に行った。気仙沼で入った温泉は最高だったし仮設商店街では店のおじさんたちとも大いに盛り上がった。

アジトに帰ると必ずそはらに立ち寄るのだが、おう、東北行ってきてくれたんだって、とにかく飲めよ奢るよ、と爺さんらに囲まれ土産話や昔話で日付をまたぐこともしばしばだった。マスターは少し微笑んで、ありがとねといつもより多めに酒を注いでくれた。

11月、みなかみへ
当時、放射線の話は最大のトピックになりつつあった。汚染地図がネット公開された時、僕はそれを直視できなかった。妻の実家のある地域に薄い色が施されていたからだ。Amazonで信頼できそうな線量計を買い、現地に出かけると車を借りて農地から山奥まで細かく計測した。だけど実家の人たちにはそんなことは言い出せなかった。カメラ小僧だから紅葉の写真を撮りに来ました、なんて言いながら居候を決め込んでいたのだが、帰り際「私たちはもう年寄りだから良いの、孫たちが遊びに来るのが心配でねえ」と言われると、山奥までいくとそれなりの数値が出ましたが、平地は東京と変わりませんでした、家の中はまったく安心です、と正直に答えるしかなかった。実際そうだったからだ。この頃には原発と放射線と名のつく書籍は片っ端から取り寄せて読んでおり自分なりの基準は持っていた。妻にも今すぐどうこうってレベルではないと説明した。
12月、三陸鉄道

12月にはいっても東北の知人にお世話になり三陸各地を回った。皆既月食の夜だった。ネットに溢れる情報はどれも信用するに値しなかった。できるだけ自分の体験をベースにそれを書籍で整理することを心がけた。それでも過激な話を目にすると心は揺れた。そのたびに機会を見つけて現場に行った。少なくとも妻と子に僕の判断を伝える義務があると思ったからだ。



2011年、2年目の僕にとって、ここは本当のアジトになった。





次は東京アジト大学卒業論文(4-6) 〜3年生・・・さよならそはら(2012年)です。

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