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2015年2月に読んだ本の記録

2月に読了した本は6冊でした。変なクセでいつもあちこちに(仕事場とか食卓とかトイレとか風呂場とかKindleアプリの入る端末複数とか)読みかけの本を散らかしておいて気分でつまみ読みするので、だいたい10冊くらいの読みかけを抱えているので、ここに出てくるのはたまたま2015年の2月に読了したってだけの本だったりします。
今月は紙の本とKindle電子書籍が3:3となってました。

期間 : 2015年02月
読了数 : 6 冊
ドキュメント御嶽山大噴火 --生還した登山者たちの証言を中心に救助現場からの報告と研究者による分析を交え緊急出版!-- 【地図付】 (ヤマケイ新書)
山と溪谷社 / 山と渓谷社 (2014-12-01)
読了日:2015年2月28日
名古屋から帰る日に地下街の本屋に積んであったのを見つけて立ち読みするうちにこれは読まねばと思った。たぶん村上春樹のアンダーグラウンドを読み終えたばかりだったからだろう。不意に極限状況におかれたとき、自分ならどうするものだろうかと思うと山登りをしない僕にも他人事ではない。

3.11の記録を読んだときにも思ったけど、極限状況の現場におかれても我々はほぼ冷静にやるべきことを行い他人を助け悲劇を受け入れながらも生への可能性を忘れたりしないという、とても優れた特性を持つ生命体なのだなあと思う。別に日本人だからとかいうわけでなく、しっかりと教育を受け成熟した現代人であれば世界中どこにいってもそうなのだと思う。だけど組織として対処しようとするとどうしてもうまくいかないようだ。もしかしたらこればかりは日本独特なのかもしれないけど。

分かりやすい結論や教訓などは書かれていない。だからこそ生の声を読み返しながら危険とは、リスクとは、仕事とは、生きる楽しみとは、なんてことを考えるのは少し前に読んだアンダーグラウンドとまさに同じだった。
アンダーグラウンド (講談社文庫)
村上 春樹 / 講談社 (1999-02-03)
読了日:2015年2月18日
去年突然思いついて村上春樹作品を大量買いしたのだけど、最後まで残っていたのが本作だ。出版直後に読んだ妻が「これは重たいから覚悟して読まないと」と言ってたせいだろう。そういえばもう2015年2月になっている。地下鉄サリン事件が起きた1995年3月20日からもうすぐ20年となる。それまでには読んでおかねばと手に取った。

1995年3月20日僕はどこにいたんだっけ?当時使っていたシステム手帳に記録してたはずだけどどこかに消えてしまって確かめることができない。2月いっぱいはアメリカを旅していて3月に入って忙しく飛び回っていた30歳なりたての新米パパだったはずだ。神戸の震災ニュースが収まらぬうちに起きた地下鉄サリン事件のニュースは鮮明に覚えているつもりだった。でも本書を読み始めてすぐそれは錯覚だとわかった。ものの見事に脳内で風化させていたのだ。

当時は東京の地理も地下鉄もほとんど知らなかった。でも2010年から4年ほど東京で生活したおかげで今なら各駅の風景が実感を伴って浮かんでくる。この本で証言する被害者たちの年齢に20を足すと今の僕になるのか、と気づいてからは30歳と50歳の両方の立ち位置から読むことができ、つまり僕は2015年の僕という視座でこの作品と向き合ったわけだ。

この本が示しているのはオウムという思想、組織の狂気や恐ろしさばかりではないと直感した。通勤という都会にすむ日本人が信じて疑わない常識の強靱さが繰り返し呈示されるのだ。そんな日本はポアしてやるのが自分らの義務だとばかりに独善的なオウムはサリンテロを仕掛けた。もちろん多くの犠牲を出しいまだに解決できていないことは事実だけど、それでも結果的に彼らのテロは失敗に終わったといえる。変化は起こらなかった。20年経っても東京人は毎朝変わらぬ態度で通勤を続けている。テロは(ほぼ)無力だった。

村上作品において都市の地下とは我々が触れてはならぬ異世界の生物たちが支配する場所である。彼はそこに通路を掘り仕事への通路として使う現代人と、そこを戦場に仕立てようと試みた狂人たちのぶつかり合いを描こうとしたのかもしれない。その意味で本作は単なる記録に留まらぬある種の危険性を抱えていると思う。だから読後ずっと心がざわざわしてしまうのだ。妻が伝えたかったことはきっとそういうことだろう。

ところでもし2015年に同じ事件が起きたとしたらこの本は成立するのだろうか。僕はそう思えない。なぜなら乗客の多くがスマホを握っているだろうからだ。事件の一部始終は写真や動画で撮影され、あっというまにSNSを通じて世界中に拡散されていくことだろう。加害者側の記録でさえ同時に伝えられることだろう。

つまり僕らはネット端末を持ち歩くことでアンダーグラウンドという空間を日常空間に取り込んでしまった。しかし一方で今度はサイバースペースをアンダーグランド化してしまおうとしているようだ。シリアから投稿される残虐な動画について考えるとそれは明かだ。

20年という時間はそういう変化をもたらしたのだと気づいた。そうなるとオウムが指一本触れることのできなかった地下の空間をスマートフォンがじわじわと侵食していく妄想が僕の頭から離れない。
もぎりよ今夜も有難う
片桐はいり / 幻冬舎 (2014-09-26)
読了日:2015年2月15日
これもたしかお薦めメールで。マメブの女として脳内でカテゴライズしてた片桐はいり女史、実はとても優れた文筆家でもあるってことは何かで耳にしていた。
風邪気味だったのでKindleをジップロックにいれ、長風呂の友として読んだのだけど、ついのぼせてしまうくらいにページめくりが止まらず、二日ほどで読了してしまった。

映画好きを自称する人の多くはたいていガチなコダワリを持っていて、それを軸に「私に言わせれば」論を展開する傾向にあり総じて面倒くさいなあ(いや褒め言葉ですよ)思ってるんだけど、片桐女史の綴る文面からはいっさいそんな気合いを感じることがない。冷静に考えたらもう完全にアッチ側にいっちゃってる経歴や体験の持ち主に違いないのだけど、さほど映画にこだわりのない僕と同じような感覚で生きている人なんだって気がしてしまうのだから不思議だ。

こういうのって良いなあ、って思う。ハングリーだけどガツガツしてない感じ。流れてきたものを素直に受け入れ気がついたら自分流に料理してしまってる感じ。
だからふらっと流れ着いてきた彼女の文章をまたいくつか読んでみようと思う。
仕事で使える!Chromebook ビジネスマンのクラウド活用ガイド (NextPublishing)
深川 岳志 / インプレスR&D (2015-01-30)
読了日:2015年2月13日
何となくAmazonのオススメ本を探しててダウンロードしてみた。
Chromeブックは去年の暮れくらいから注目していて、1台買おうと思っていたからだ。
ここ数年、仕事の大半はネット接続+ブラウザで完了するようになった。
主にGmail、Googleカレンダー、Googleドキュメント、そして各種SNSだ。
他に毎日使うアプリと言えばEvernoteとiPhotoくらい。データ類はほぼすべてクラウド上に同期している。
あとは別に毎日使わなくても良いかなあってアプリだから、ちょっとした出張なんかにはブラウザだけが立ち上がるChromeブックで十分なのかもしれない。

そう思ってざっと読んでみたけどさほど間違ってないことはわかった。
でも実際に使ってみないとこればかりは。
しかし立て続けにデジタルガジェットを買ってばかりなので、今回は妻の許可を得るのに苦労しそうだ。
そうだ、だったら妻のPCをこれに買い替えてやれば良いのか!
恋するソマリア
高野 秀行 / 集英社 (2015-01-26)
読了日:2015年2月4日
「謎の独立国家ソマリランド」をKindleで読み終えしばらくアフリカの夢に浸っていたら、Amazonでこの本が発売されると知りすぐに予約、今度は紙の本だ。
巻頭グラビアに想像するよりほかなかった前作の登場人物たちが登場していたのは嬉しかった。そしてだいたい想像通りだった。でも著者は思った以上におっさんだった(笑)。
前作はどちらかといえばジャーナリスト的だったのかもしれない。本作の方がより「旅をしている」という感覚が伝わってきた。失敗したり喜んだりときめいたり驚いたりする著者の姿に読んでいる方も一喜一憂する感じ。そして最後はなんと!といっしょに仰天するのだけど、まあそれもありかもなあと分かった風な感想を述べたくなるのだ。

本書を読んでいる頃ちょうどシリアでのISIS人質殺害ニュースが日本中を駆け巡っていた。日本でテレビをみていると何でそんなおっかない場所にわざわざって思ってしまうけど、この本に書かれているエピソードだってあと一歩違った結末だったら同じように報道されていたことだろう。結論めいたことは何もわからないけど、でもこうやって現地に入り、日本語で伝えてくれる人がいるから僕らは異なった世界の日常に思いを馳せることができるのだ。
英語はいかにして英語になったか?: 「英単語成立史」の視点から
晴山陽一 / 晴山陽一 (2014-10-28)
読了日:2015年2月3日
日替わりセールで。読む前には予想していなかったのだけど、基本的にイギリス史について短く書かれた本だった。昨年暮れにイギリス史についてはいくつか本を読んでいたのですんなり頭に入ったのはいいのだけど、一つ一つの単語についてまで記憶できたわけではない。
でも英単語の中にはなんとなく古くさいもの、フランス風に洒落たもの、ラテン語風にひねくれたもの、ギリシャ語風な情緒あるものが潜んでいるってことがわかったことはよかった。
それは日本語における漢語や南蛮語、そしてアメリカカタカナ語との融合とよく似ていて、親近感を得るものだったからだ。
もうひとつ、英語の発音がローマ字表記からずれにずれたのは比較的近世の話だということも。日本人の
ベタなローマ字発音を恥じる必要はないのだと勇気を得る。

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