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2015年3月に読んだ本の記録

ついこないだ毎月読んだ本の記録をブログに書くのだと決めたのに早くも2ヶ月遅れになってしまうのはよろしくない、と月末最終日にモスバーガーにこもりざっくり再読しながら書きなぐった。3月は12冊を読みましてそのうち5冊がKindle電子書籍、ノンフィクションから小説、漫画に至るまで相変わらずの乱読。
期間 : 2015年03月
読了数 : 12 冊
酒場詩人の流儀 (中公新書)
吉田 類 / 中央公論新社 (2014-10-24)
読了日:2015年3月30日
妻が買った本を借りて東京出張中に読んだ。僕らにとって吉田類とは酒飲みのカリスマであって、HDDレコーダーに自動録画されてる彼の酔っ払い番組を見ながらスクリーンのこちら側でも乾杯するのが夜の楽しみという、いうなれば僕ら夫婦の常連さんなのである。

でも本書の語り口はいつも後ろ手に組んでろれつの回らないまま次の店へと消えていく吉田類のイメージとは少し違った。著者はきっと実際に見ている世界を描くよりも自分の脳内に映し出される内的な絵をみている時間が多いのだと思う(いつも酔っ払ってるのはきっとそのせい?)。ただの風景の描写がそのまま想い出と重なり美しい詩となっていく。まるで物心ついたばかりの少年のようだ。

2011年の震災以降しばらく僕は酒場放浪記を見ると特別の思いが湧き上がってきたものだ(もうひとつ、ブラタモリも)。僕らの愛した東京の下町を以前と変わりなく練り歩き、美味い旨いと飲み食べ歩く彼の笑顔にはずいぶんと癒された。本書を読みながらたぶん彼は意図的にやってたのだろうなあってふと思えてきたのは収穫だった。
NHK「100分de名著」ブックス ブッダ 真理のことば NHK「100分de名著」ブックス
佐々木 閑 / NHK出版 (2012-06-22)
読了日:2015年3月19日
著者のKindle本はこれで3冊目となるけどついつい買ってしまう。
現代の科学と釈迦の仏教の類似性を感じさせながら、より理屈っぽく物事を理解しようと試みるタイプの人間にブッダという存在が過去挑んだことを解説しようと試みる本。
いま日本で普及している仏教とはだいぶ様相の違う釈迦の時代に考えられた仏教をいまいちど見直してみることは、山積する現代の悩みを解決に導く何かの糸口になるのかもしれない。
グアテマラの弟
片桐 はいり / 幻冬舎 (2007-06-01)
読了日:2015年3月15日
片桐はいりの本を読んだ、と妻に言ったら「あら私持ってるよ」とこの本を取り出してきた。すぐさま読み始め、週末であっさり読了してしまった。彼女のニュートラルでイノセントな言葉を読んでいるとこちらにまでその素直な人間性がインストールされた気になる。
いちど夫婦でグアテマラに行こうと計画したことがあったけど、ちょうど震災とかなんだで中止にしてしまっていた。それなりにグアテマラやシティのことは調べていたからなおのことまだ見ぬグアテマラ世界がページから浮かび上がってきた気がする。
通信手段の発達で地球が狭く小さくなっていく過程が描かれており、この感覚は20世紀から21世紀に生きた人類にしかもう味わえないのだろうなあと思った。
旅と家族とはつねに相反する概念だと思っていたけど、奇跡的にここではそれらが見事に重ね合わさり誕生と再生を繰り返す。いつかまた旅に出るときカバンに仕込んでおきたい本だと思った。
NHK「100分de名著」ブックス 般若心経
佐々木 閑 / NHK出版 (2014-01-24)
読了日:2015年3月15日
キンドル日替わりセールで。般若心経についてはほとんど何も知らないので100分300円で学べるのならそれも良いかなと買ってみた。結果は大正解(100分以上かかったけど)。読みながら気づいたけど佐々木閑氏の本は昨年もKindleで読んでたのだった(http://mediamarker.net/u/bluesmantaka/?asin=B00C4055U4)。

逆説的だけど般若心経に触れながら、むしろ釈迦の仏教について解説されている気がするのは僕らが通常持つ仏教のイメージが般若心経的だからだろう。

"『般若心経』の世界観を端的に言えば、「分析の否定」ということになるでしょう"と著者は書く。逆に言えば釈迦の仏教はとことんまで分析的で理屈っぽく、何ごとも定義した上で理詰めの納得を得ようとする。それたに対して般若心経は「いいから信じてみようよ」と説く感じだ(と勝手に受け取ったのだけど)。

昔の偉い人たちが考えたのだからまずは身を委ねてみよう。唱えると安心して安らかな気持ちになれる。
遠い昔、そうでなければ救えない心がたくさんあったのだとおもう。
もしかしたら今でもそうかもしれない。何か不思議な力が宿った文字列の力、みたいな。

僕は元来理屈っぽい人間だからたぶんそれだけではモヤモヤしてしまうと思うけど、それでもいつかそんな境地に至るのかもしれない。まだわからない。
はじめての福島学
開沼 博 / イースト・プレス (2015-03-01)
読了日:2015年3月15日
著者はかなり怒っている。猛烈な怒りがこの本を書かせたのだと思う。
彼が怒っているのは「情緒に流された無関係な人たちによる福島いじめ」に対してだと感じた。

たとえば「スティグマ」という言葉について彼はのべる。「負の烙印」という意味だという。
いまや福島はスティグマ化されたと彼は訴える。考えてみると世の中でヘイトスピーチと呼ばれる言説の大半は「スティグマ化」で説明できると思う。僕だって何かをスティグマ化した発言をしているかもしれない。
SNSが浸透し以前に比べて発言の機会が増えた時代には、自分の発言には慎重すぎるくらいでないといけないと痛感した。


最後に彼が訴える福島へのありがた迷惑12箇条はとても辛辣だ。
https://cakes.mu/posts/8559

自分だって無意識にそんなことをやってきたのかもしれない。
無意識だから許されるというのであれば世界中の差別やいじめも正当化される。
まして善意に基づくのだから許される、などと思い込んでいたらなおのこと罪深い。
分かりやす過ぎる安易な物語に流されることなどそろそろ止めて、いまいちど当事者たちの声に耳を傾けて問題解決に取り掛かる時期なのだと思った。
いちえふ 福島第一原子力発電所労働記(2)
竜田一人 / 講談社 (2015-02-23)
読了日:2015年3月14日
1巻から続けて一日で読む。1巻目の勢いというか思い入れみたいなものが少し落ちたことでより日常感が浮き出た。トーンダウン、かもしれないけど作者の迷いが少し消え、主張したいことが定まったせいでもあると思う。その意味でも戦記物って感じがする。今後も続いてくようなので機会を見て読み続けたいと思う。貴重な証言には変わりないと思うからだ。主張はいろいろあると思うけど。
いちえふ 福島第一原子力発電所労働記(1) いちえふ 福島第一原子力発電所労働記
竜田一人 / 講談社 (2014-04-23)
読了日:2015年3月14日
4年目にふと買ってみた。初回だけは発売時に週刊誌を買い求めて読んでいたのだけど続けて読もうかなと2冊まとめてダウンロード。福島第一原発がらみの本は一時期集中して読んだつもりだけど、数年経つとそろそろ細かいところがあやふやになってくる。漫画というスタイルはそんな時にとても近づきやすく、パワフルだ。パワフルすぎることもあるかもしれない。
漫画という表現の方法について異論あるかもしれないが、僕はこの本が事故から比較的近い時期に出されたことはとても貴重なことだと思う。

読みながらどこにでも日常は発生し継続するのだなあと思った。
戦記を読んだ時もそう感じた。人間の強さでもあり怖さでもあると思う。日常の力強さとその魔力をいつも意識し、相対化し続けることでしか人類は次へ進めないのかもしれない。次にも日常があるのだろうけど。
ニッポンの音楽 (講談社現代新書)
佐々木 敦 / 講談社 (2014-12-17)
読了日:2015年3月14日
Podcastで作者のインタビュー番組を聞いて買ってみた。
僕とまったく同い年の作者による日本の音楽論はとても興味深いもので数日で読み切ってしまった。
1970年のはっぴいえんどから最近の中田ヤスタカまでの物語だ。僕が音楽を意識して聴き始めたのはラジオに熱中しはじめた1975年くらいからだから、第一章と第二章のはっぴいえんど、YMOについては「そう、そう」と頷きながらページをめくった。でも第三章の渋谷系と小室系になると90年代は仕事ばかりしててほとんど邦楽聴いてなかったので「へぇそうだったんだ」と断片的な理解を繋ぐ読み方となり、最後の第四章の中田ヤスタカの話になると2000年以降かなり音楽に戻った生活を送ってることもあり「あ、知ってる」みたいな、ちょっと自分史的な読み方ができた。

日本の音楽市場が米英と繋がっていない時代にはその落差を利用した音楽家の存在が許されたけど、次第に情報格差がなくなり始めると彼らの立ち位置が大きく変わっていく、という見方は面白かった。きっと音楽だけではなく多くの仕事もそうなのだと思う。追いつけ追い越せの時代はいまよりもシンプルだった。僕の仕事する業界もたぶんそんな経緯を経てきたはずだ。

最後に坂本龍一と中田ヤスタカが二人して「実は歌詞が頭に入ってこない」と答えていたのは面白かった。実は僕もそうなのだ。だからといってどうってことないけど。
イスラーム  生と死と聖戦 (集英社新書)
中田 考 / 集英社 (2015-02-17)
読了日:2015年3月8日
人によって立場によってさまざまな見方がある問題はできるだけ広く多様な考えに触れておいた方が良いと思って買ってみた。ずいぶん昔に著者のTwitterを見てたときはなんだか変な人だなあというイメージがあったけど本書はとても落ち着いて書かれている。

宗教とは創造主と人類との約束事だという。たとえが許されるかわからないけど、それって今使ってるパソコンの世界でいえば、スティーブ・ジョブスとMacOS Xとの関係みたいだと思いながら読んだ。そういえばこないだまでWindowsとMacとどっちが素晴らしいかで熱く語ってた。

となれば国民国家、近代国家、あるいは領域国家とはアプリケーションソフトみたいなもんだ。最初はMacでしか動かなかったExcelもWindows版がでたら双方で読み込めるようになった。そうなるともうOSの違いよりも「Office互換かどうか」が重要となってきた(Lotus123ユーザーだった僕は当時辛かった)。

しかし最近ではクラウド全盛となってもはやOSが何であろうとネットにさえ繋がってたらGoogleスプレッドシートでこと足りるようになってきた。マシンも選ばずアプリさえも必要としない。データファイルだってどこにあるのか良くわからない。でも何となく仕事はできちゃうしまあいいのかなって。

何の話だったっけ。そう宗教だ。
僕はずっと宗教は古い時代のもので、その後国家の時代がきて、将来は地球統一政府になるのだと思い込んできた。そういうSFが全盛だった時代に育ったからかもしれない。

でも今起きている現実はそこからあまりに遠い話ばかりだ。古い昔話だと思い込んでいた創造主との約束事を巡って大量の武器が使われ、軽々と命が散っていく。人類の統一の夢とか民族自決とかそんな言葉もあったよねえという時代が到来しかかっている。

理想を追う前にまずは歴史を振り返らないといけない。古いとか新しいとかといった基準でなく、人々がそれぞれに信じていることに興味を持ち、話を聞き、説教する前に理解をしなければならない。

そうすればいたずらに恐怖を抱き合ったり、排除したりする必要もなくなるのかもしれない。
そんな過程を経ることで僕らは創造主の気持ちにちょっとだけでも近づけるのかな。
沖縄の不都合な真実 (新潮新書)
大久保 潤 , 篠原 章 / 新潮社 (2015-01-16)
読了日:2015年3月4日
ラジオで何度かこの本の話を聴いて読もうと思っていたところでAmazonに勧められてついで買い。
ほぼ1日で読んでしまった後、何回か読み直した。折しも普天間と辺野古を巡るニュースが毎日報道されている時期だけに強烈な印象を受けた。もちろんここに書いてあることだけがすべて真実かどうかは分からないけど、社会的な問題について考えるときに大切な態度について、考えさせられた。

第一に「沖縄が」「日本政府は」「アメリカが」といった大きな主語を使うべきでない、ということだ。本書が描くのは主に「沖縄には明白な階層がある」という点である。既得権をどう維持するかに熱心なエリート層とそうでない庶民との格差が日本のどこよりも大きく、かつそれらが政治的であるという指摘がなされている。だから「対沖縄」という大き過ぎる括りで対応をするたび問題がこじれていくのだという。
日本政府にだって左右の政治家もいれば官僚もいればマスコミだってエリートから過激派までいる。米国だって軍部から共和党も民主党も原理主義者もいれば一般消費者もいてそれらはすべて相互に重なりあい、場面に応じてさまざまなペルソナを使い分けている。もちろん僕だってそうだ。分かりやすいからといって物事を単純化しすぎるとまるで違う物語が産まれてしまう。

第二に被害者ポジションの麻薬性だ。沖縄に限らずあらゆる問題解決の場面において、人間は政治的に振る舞う生物だ。政治はときに大衆の”情緒”を利用する。被害者という立場は得てして暴走を許す。でもそれはあくまで「政治的」なゲームにすぎないことを当事者ではない者は意識すべきなのだと本書は訴えかける。政治的に利用される情緒にナイーブに流されることは、当事者以外の人間性をくすぐってくれるけど、それだけで問題が解決するほど人間社会はナイーブではないということか。

第三にナショナリズムの麻薬性だ。本書は「沖縄ナショナリズム」について元来「米軍による政策」の結果だと指摘する。ネット上では「中国が沖縄独立をそそのかしている」ことになっているようだし、そうでなくても基地は要らない、という声は基本的に反米だと思いがちだがそうではないのだというのだ。何が真実か僕には判断できないけど、そもそもナショナリズムにはロジカルな整合性など必要ないのかもしれない。ナショナリズムはいつでも熱狂的な運動に発展するだけの甘美な魅力を備えているのだと思う。現実の問題を解決しようとするならば、麻薬的なナショナリズムは少しでも遠ざけておくべきではないかと思った。

米軍基地が返還され巨大ショッピングセンターがオープンするらしい。土地を貸しているより雇用も経済効果も上がるから沖縄のためになるのだと歓迎されているそうだ。今後も基地が返還されるたびそんな景色が増えていくのだろうか。それは長期的に沖縄が望んでいる姿なのだろうか。

いかにして早期にいまある問題を解決し、解決後にどんな理想を実現しようと考えるのか。
沖縄問題に限らず僕らが常日頃接する社会的な問題に向き合うときの態度について考えさせられた本だった。
その「つぶやき」は犯罪です―知らないとマズいネットの法律知識―(新潮新書)
神田 芳明 , 香西 駿一郎 / 新潮社 (2014-05-16)
読了日:2015年3月3日
某企業で社員向けIT講座なんてやってるのでその教材にどうかなとダウンロードしてみた。風呂の中で読んでしまった。なるほどなるほど。グレーだと思ってつい踏み込んでいたことも法的にはアウトだってことがたくさんあるのだと知った。たとえば「アーティストのためを思ってネットで宣伝してあげたのに」というブログが著作権法違反になるとか。善意や意思は無関係なのだ。

著作権自体にはいろいろと言いたいこともあるんだけど、現行法で定められている以上はそれを知った上で節度ある行動をしないと主張も通じないだろう。

いずれにせよこういった事実はまずそろそろ社会として国民に認知させる時期かもしれない。道路交通法を徹底させるのと同じように。
キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)
J.D. サリンジャー / 白水社 (2006-04)
読了日:2015年3月1日
去年ブックオフで買った村上春樹シリーズだが本作はいつまでも本棚に置いたままで手に取ろうとしなかった。これまでも何度か話題になり、いつでも読む機会はあったはずなんだけど、1980年にジョン・レノンを銃殺したチャップマンがこの本に影響を受けたと報じられて以来、何となくコノヤロー的な気分で遠ざけてきたのだ。35年も経って読むことになった。

などと気負って読み始めてみたものの、衝撃的な物語として読めたわけでもなかった。35年前の15歳が読めばそれなりに衝撃だったのかもしれない。でもジョンよりさらに10歳も歳を取ってしまった僕には「あーそんな気持ちわかるなー」などと余裕すら感じて楽しめてしまったのだ。イマ風に言うと厨二病マックスで背伸びした少年が虚勢を張りながらでも意外な素直さでもって大人たちのどんよりとした世間に挑戦していく話だと思った。なんかオシャレすらに読めてしまったのは翻訳のせいかもしれない。調べてみたら村上氏が本作を翻訳出版したのは彼が54歳の時らしい。

機会があれば原著は無理でも野崎氏の訳でも読み直してみたい。60歳くらいになってからそうすればまた今回と違う読後感が得られるのだろう。

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