スキップしてメイン コンテンツに移動

2015年6月に読んだ本の記録

気がついたらもう8月の中旬になってた。ちょっと前に読み終えた本を再び手に取ると恐ろしいくらいに中身を忘れてて驚かされる。でも初心に返って楽しめるのでそのぶんお得なお年頃になってきた、のかもしれない。
期間 : 2015年6月1日 ~ 2015年6月30日
読了数 : 11 冊
アルハンブラ物語〈上〉 (岩波文庫)
W. アーヴィング / 岩波書店 (1997-02-17)
読了日:2015年6月6日
スペインに行くのならアーヴィングのアルハンブラ物語は必読である、という本を読み、ブックオフで調達。届いてすぐにページをめくるや、170年近く前の旅行記に鷲づかみにされてしまった。1830年代といえば日本なら江戸時代、東海道膝栗毛の頃だ。それでも翻訳のせいなのかとても現代的な旅行記として読むことができた。当時のスペイン人たちはアメリカ人のアーヴィングにとっておもいっきり辺境の人間だったようで、今こんなスタイルの旅行記なんてのはなかなか成立しにくいと思う。
本書の端々から感じるのはモーロ人(長らくイベリア半島を支配していたイスラム教徒)に対する怖れと憧れだ。尊敬の念すら感じる。世界史で習ったのとは少し違う感じだ。異教徒に支配されたキリスト教国、という図式だけでは説明できない何かを感じた。
挿入される逸話が楽しい。現実からふわっと離れた華やかで輝かしく、そして妖しげなアラビアンナイトみたいだ。
アルハンブラ物語〈下〉 (岩波文庫)
W. アーヴィング / 岩波書店 (1997-02-17)
読了日:2015年6月18日
古本のたのしみって意外なところにあるもんだな、とページをめくりながら思った。ほんのりとたばこに匂いが染みついていたのだ。前のオーナーが愛煙家だったのだろう。ビジネスホテルの部屋にニコチンの香りが漂うだけで熟睡できないくせに、古本だとなぜか許してしまう。なぜだろう。古いというだけでもうネジが緩んでしまっているのだ。

200年近い昔に書かれたこの本も、そのさらに昔のモーロ人統治時代のアンダルシア地方で語られていた様々な伝説を織り込みながら日常とも非日常とも言えない生活を描いていく。同じ地球で暮らしているのにこんなにも違う世界があったのだと驚かされる。と同時にほとんど現代人と変わらぬ作者の感性にも驚くのだ。

旅も読書も、世の中にある大きな差異とそれでも揺るぎない人間の変わらなさのギャップに、萌えるのだ。
ウェブニュース一億総バカ時代 (双葉新書)
三田 ゾーマ / 双葉社 (2015-05-20)
読了日:2015年6月9日
「そもそもなぜ無料で記事を読めているのかを考えた方がいい」という言葉が目に突き刺さる。
無料のものがずっと無料であるなんてことは国家の政策でもない限りほぼ有り得ないのが資本主義社会というものだ。それが続いているということは、何かしら資金源が存在する以外に可能性はない。それは広告である。その広告は「PV=ページビュー」によって金額が決まる。したがって「無料のウェブニュースはPV稼ぎのために手段を選ばない」という公式が成り立っている、とこの本は訴える。

そもそもウェブは無料の世界だった。だがそれはあくまでウェブが「副業」のツールだった時代までのことだった。本業を持つインテリたちが自身の知識や人脈を惜しげもなく残していってくれる世界が懐かしき時代のインターネット、ウェブだった。だけどいつのまにかウェブは中の人の「本業」となっていたのだ。もはやウェブの書き手たちは生活を賭してテキストを紡いでいるのだ。

古き良き時代からのインターネットユーザーである僕の世代などはそういった幻想を引きずっている。そしていまやそれは現代インターネット業界のエサであり燃料になっているかもしれない、とこの本は摘発する。

そういえばTwitterを始めた2009年頃はよくRTしたもんだ。俺たちが見つけた俺たちだけのニュースを俺たちで共有するんだ、それはネットの集合知であり新しい時代の始まりなのだ、と興奮していた。いつの日かそんな牧歌的な時代はひっそりと終わっていた。たぶん2011年3月くらいを境に。

その後Facebookを舞台に何やら不思議なニュースが復活することになる。その正体がこの本が取り上げるウェブニュースだった。あるいは厄介なタイアップ広告であり、ステマだった。陰謀論も一定の割合で乗っかっていたがそれとてアフィリエイト稼ぎのためにと盛って盛って盛り上げた使い古されたネタだった。

これからもそんなネタに僕らは振り回される続けるのだろうか。いやそんなことはあるまい。誰だって学習する。自分は利用されているだけだった、と気づく日が来る。昔を振り返ってああ俺もバカだったなあ、なんて笑いながら振り返ることができれば良いなあと思う。

だけどFacebookのタイムラインがウェブニュースからのシェア一色な人をたまに見かけるけど、本当に大丈夫かなあ、と心配になる。どんなに立派な本業を持っている人でも「実はこの程度のネタも見抜けないリテラシーの持ち主なのです」と毎日宣言しているようにしか見えないからだ。
悪いことは言わないから少なくともPV稼ぎにしのぎを削るウェブニュースや誰が書いてるかも判らないブログからネタを引っ張るのだけは今のうちにやめといた方がよいと思う。
パリ・ロンドン放浪記 (岩波文庫)
ジョージ・オーウェル / 岩波書店 (1989-04-17)
読了日:2015年6月8日
だいぶ前に誰かの本でこれがおすすめ、というのを読んでいた記憶があり、ふとしたきっかけで買った。読み始めるとまるで昔読んだ沢木耕太郎の深夜特急のようなスリルから始まり、とても面白く最後まで読んでしまった。1927年から30年までに著者がパリとロンドンで体験した超貧困体験ルポだ。つまりいまから90年近く前の世の中なのだけど、さほど古さを感じさせないのは底辺の生活とは時代の変化とは別の次元で存在しているからなのかもしれない。米国で言えば世界恐慌の前後であり、日本でいえば関東大震災の少しあと、昭和2年から昭和5年までだ。僕の家族でいえば祖母が15歳から18歳までの時期であった(わざわざ調べた・・)。

何となく西洋人といえば昔から個人主義の清潔志向で誰もがクールに生きてきたみたいな思い込みを持っているものだが、そんなはずもなく江戸時代の長屋生活の方がもっと健康的だったのではと思えるくらいだ。ちょうど同じ時代に描かれたヘミングウェイの小説も平行して読んでいたからなおのことそう感じた。

だからどうってわけでもなくて、読書はほんと面白い。古い本を手に取るとますますそう思う。
京の味 (1967年) (カラーブックス)
岩城 もと子 / 保育社 (1967)
読了日:2015年6月23日
上通りの古書店を覗いてたら懐かしい装丁の本に目を奪われ思わず購入。こちらは1967年の発行だからほぼ僕が生まれてすぐの時代だ。その時代に思いを馳せながらページをめくった。
京都のことだからここに紹介されているお店の多くはまだ現役なのだろう。親戚が営む祇園の割烹に勤めながら学生時代を過ごした妻に見せると知ってるお店が並んでいるとのことだった。貧乏下宿とその周辺の定食屋しか知らない僕には無縁の世界だったが、それでも何度か見聞きした名前もある。
まだ路面電車が主要な交通機関であり、多くの貧乏学生たちがうろうろしていたであろう昭和40年代の京都にも、古くからの金持ちや高度成長時代に小銭を稼いだ紳士たちが静かな食事をしていた空間があったのだなあ、なんて妄想しながらページを閉じた。
京都味の宿―ホテルから民宿まで (カラーブックス (614))
松井 守 / 保育社 (1983-01)
読了日:2015年6月26日
上通りの古書店の100円コーナーで買った。
昭和58年の発行だからまさに僕ら夫婦が学生時代に過ごしていた京都の光景がこの本の中に残っているのだ。驚くべきことに、物価がほとんど変わっていない。当時の京都は外食の値段が高かったってこともあるだろうが、それよりもこの30年間で進行したデフレーションの結果だと思う。ほんと、今でも立派に通用するか,逆に高いなあって思うページすらある。でもバブル前は給与もさほどでなかっただろうから、当時京都で外食するなんてのはやっぱり贅沢だったのだろうなあ。
イラストの雰囲気や写真にうつりこんだ人物らの造形がなんだか懐かしかった。そんなに昔のことではないって思ってたけど時間だけはしっかり流れているものだ。でもそんなことを感じることができるのも京都という特殊な街で過ごしたことのある人間の嬉しい特権なのかもしれない。
反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)
森本 あんり / 新潮社 (2015-02-20)
読了日:2015年6月21日
最近よく耳にする「反知性主義」という言葉について少し勉強してみようとAmazonで調べて買ってみた。読む前は「反知性」だからきっと「情緒的」とか「扇動的」な感じなのかなあと思っていたけど半分間違っていたようだ。
アメリカ大陸における宗教史を踏まえながらじわじわと反知性主義とは何かに迫っていく。Revival運動という現象を通じ、Virusに似た宗教の威力に接しながら年に一度も宗教に接することのない僕の生活からは想像のつかない知性と反知性とのぶつかり合いを想像するしかなかった。
けっきょくのところ、反知性主義と反エリート主義、反アカデミズムとの違いはよくわかっていない。あるいはカウンターカルチャー、パンクといった戦後の若者文化も反知性主義の枠組みに入るのだろうか。文化大革命はどうなのだろう。この言葉について読んだ本はこの本だけだし、それほど日常会話として多用されているわけでもないので、今のところ僕にはまだつかみどころがない。
ただ巷間耳にする「反知性主義」の使い方のほとんどが正確でないことはわかったような気がする。
大渦巻への落下・灯台: ポー短編集III SF&ファンタジー編 (新潮文庫)
エドガー・アラン ポー / 新潮社 (2015-02-28)
読了日:2015年6月21日
妻と映画を観に行った土曜日、上通りの長崎屋書店で見つけて衝動買い。ポーといえば1809年生まれだ。もう思い切り19世紀だ。200年も前に書かれた短編集なのだ。なのにこんなにハラハラしながら読めるだなんて、これはなんなのだろう。ひとつには翻訳というステップが僕ら外国人に幸運をもたらしているのではないか。時代と共に言葉は変わっていくが、翻訳だからその時代時代で新しい訳を出すことができる。日本の200年前の小説に翻訳が必要かと言われるとちょっと微妙だけど、外国語ならなんの抵抗もない。

まあそんなことは置いといて、200年前のアメリカ人が考えた未来世界、これはとても刺激的だし、飲み屋の話題としても最高レベルだと思う。

・大渦巻への落下
・使い切った男
・タール博士とフェザー教授の療法
・メルツェルのチェス・プレイヤー
・メロンタ・タウタ
・アルンハイムの地所
・灯台 

どれも面白かったけど僕にとっては表題作が一番かな。
恋する文化人類学者
鈴木 裕之 / 世界思想社 (2015-01-09)
読了日:2015年6月6日
ラジオで著者の出演回を聴いて面白そうだったので番組のHPから買った。こないだ高野秀行氏の「謎の独立国家ソマリランド」「恋するソマリア」を読んだばかりだったのでアフリカについて興味があったのだ。
著者の語り口と同じく読み始めから分かりやすく、まるで自分のことのように(著者と僕とは同い年なせいもある)疑似体験的に最後まで読んでしまった。関係ないと思うけどたまたま山上のキャンプ地のテントで読んだというちょっとだけ大地に近い環境も手伝ったのかもしれない。

日本列島は日本人だけのものではないみたいな発言をして炎上させた首相がいたけど、どこまでが日本列島か、みたいな人騒がせで面倒な問題よりさらに面倒くさい「どこまでが日本人か」ということについてまで考えさせられた。DNAで分けるという考えもあれば、国籍、民族、宗教、言語、はては国民性や性格といった分け方を唱える人がいるのかもしれない。

でも僕はつまるところ「ご縁のあった方はみんな仲間」で良いんじゃないかと思う。ご縁がなくなったと思えば自ら出て行ってもいいわけだし。

ひょんなことで、結婚というご縁ができて、娘ができて、日本で暮らす。これだけでもう立派に日本人だと思う(ご本人はどう思うかわからんけど)。一方で僕らだってある日アフリカや南太平洋のどこかの国とご縁ができて、いつの日かそこの国民になっているかもしれない。

もし世界平和なるものが実現するとしたら、たぶんそんなことじゃないのなかな、と読み終えて考えたのだった。
憲法の条件 戦後70年から考える (NHK出版新書)
大澤 真幸 , 木村 草太 / NHK出版 (2015-01-10)
読了日:2015年6月2日
ここ数年、改憲や憲法解釈変更に関するニュースが多くの議論を呼んでいる。SNSを眺めていると一方が他方に向かってそれぞれ「こんな当たり前の常識をなぜ理解できないんだ?」といって嘲笑する言葉がたくさん転がっている。そしてそれは僕をとても残念な気分にさせる。どうして日本国憲法の話題は気が滅入るんだろう。

本書で次々提示される「無知のヴェール」(ロールズ)、グノーシス(選民思想主義的な秘教主義、たとえば「大手マスコミの伝えない真実の世界がある」的な世界)、「理性の私的な使用と公共的使用」(カント)、「一般意志と全体意志とはどう違うのか」(ルソーは有限時間内に解けるだろうと考えたが、アーレントはすぐには解けないはずと複数性を唱えた)といった言葉にはその都度はっとさせられ、何度も読み直した。

そして著者らはこう続ける。

-----公共的価値とは何なのか」という問いは、どこかに答えがあるようなものではなく、「これは本当に公共のためなのか、私利私欲ではないのか」と問い続けることによってしか近付けません。そして、その問いは、「それは憲法の理念に沿っているのか」と問い続けること-----

つまり憲法とは理念であり、我々はその理念をたよりに公共について考え続ける必要があるということだ。考え続ける、ということは「結論など出ていない」ということだ。つまり「隣に凶悪犯がいると分かってるんだったらこちらから先に殺しに行くことこそ国の仕事に決まってるだろ」派の人も、「世界平和のためなら殺されて滅んでも良いのです」派の人も、どちらが一方的に正しくあるいは一方的に間違っているかって結論でさえまだ出ていないということだ(人類が人類の枠に留まってるうちに結論が出ることはないのだろう)。

だから大切なことは「まだ分からないけれどしかし答えは必ずあるはずだ」という前提に立って謙虚に問い続けること」なのだと思う。そのためのツールのひとつが憲法なのだという考え方を本書で知った。

そんな我々に必要な態度は、
-----眉間にしわを寄せて問題行動を起こす人たちにお説教してばかりいるだけではなくて、「こういう世界をつくりたい」という前向きな声に答えて、様々な議論をかわせるような文化を築いていくべき------
なのだいう。
−−−−−最も恐ろしいことは、嘲笑に気持ちを挫かれ、自らが皮肉屋に堕してしまうこと-----
だからだ。

毎朝のように僕を追いかけてきた残念な気分の正体が見えた気がした。
物語 カタルーニャの歴史―知られざる地中海帝国の興亡 (中公新書)
田沢 耕 / 中央公論新社 (2000-12)
読了日:2015年6月26日
バルセロナに行く前にいろんな雑知識を詰め込んでおいた方が良かろうとブックオフで購入。これがまた大変に面白く、今や歴史の表舞台から姿を消したようなカタルーニャが実は地中海の歴史において欠くことのできない存在感を発揮した帝国であったことを知る。僕ら日本人には同じような人名+○世の組合せはいまだに混乱を招くのだけど、それでも無味乾燥な世界史とは異なり、大河ドラマのような表現は間違いなくカタルーニャへの興味をかき立ててくれた。

この本はぜひ現地でも読まねばとKindle版も購入した。

コメント