スキップしてメイン コンテンツに移動

熊本地震の記録-6-4月19日-4日ぶりのお風呂、深夜にはついに水が戻った

2016年4月19日火曜日 

近くの公園には炊き出しや消防車
 昨夜飲み過ぎたせいか6時台に目が覚めてしまった。エイトマンのママはもっと早く起きて近所を散歩してきたらしい。車中泊と違ってぐっすり眠れたと言ってくれたので僕らも安心した。小さな子どもや病人、老いた人とともに避難生活を続ける人たちの苦労は計り知れない。というか僕らには想像することしかできない。被災地にあって被災していない僕らにできることはこれくらいしかない。

ずっと続く災害ゴミ
 簡単な朝食の後、僕ら夫婦で散歩に出ることにした。別の友人より1kmほど歩いた先にある温泉施設が稼働していることを聞いたからちょこっとお風呂にでも行こうかと。その間エイトマン一家には留守番してもらうことにした。ズンズン歩いているとどこもかしこもブロック塀、壁、屋根瓦などが壊れている。そして塀の回りにはずっと災害ゴミの列が続いているのだった。一見無事そうに見える住居であっても家の中ではたくさん落ちて壊れたりしているのだろう。ほとんど壊れてなさそうな電化製品や楽器も多く見かけた。こちらは「もう無くても良いか」って地震を機に判断されたモノじゃないかなと感じた。働いて得たお金でモノを買う。それは働いて幸せを得ることとほとんど同義だったはずだ。でも二度の地震が人々の心の中にあったそんなリンクを切ってしまったのだと思う。GDPや企業の成長にとっては悪夢だけど、それはいつか来る未来だったのかもしれない。きっと悪いことばかりではない。収集する方は大変だと思うけど。

温泉施設には長蛇の列 
温泉施設に歩く間にもあちこちから電話がかかってきて対応に追われた。ゴミの間を歩きながらイヤフォンで喋り続ける不審男。そうこうするうち温泉施設に到着、見上げると長大な列ができている。男は並ばず入れたよという事前情報を元に番台に尋ねてみるとたしかにそうらしい。しかし女性客は並ぶしか無いとのこと。妻に伝えると「私はいいから入ってきなよ」というので、ほならすんませんけど、ということで自販機でチケット購入、まったく並ぶこともなく実に4日ぶりに入浴することができた。爺さんから小さな子どもまで笑顔に溢れている浴場に首まで浸かりながら、こんな気持ちの良い風呂はめったにあるもんじゃない、なんて鼻唄気分に。

近所の食堂が炊きだし
 風呂を出て妻に電話すると向かいのコンビニにいるという。なんと駐車場に座ってビール飲んでた。暇つぶしにコンビニに入ってたらちょうど配送トラックがやってきてお弁当やおにぎりなどが入荷したらしい。脊椎反射的に焼きそばとビールを鷲づかみした妻を褒めて良いものか分からないがとりあえず昼飯はこれだなと家に戻ることにする。するとエイトマン一家から「知り合いの家に支援物資を取りに行くことになったので一緒に行きましょうか」という電話、近くで待ち合わせすることに。歩いていたら角の食堂が無料炊き出しを始めていた。頭にタオルってこういう時に格好良いなあ、俺たちも炊きだし食べてみたいなあと思ったけど焼きそば弁当持ってるのでまたの機会に。

民間支援物資
 友人一家と再会し彼らの車で益城町の民家に行くとそこは地元では有名な三味線ミュージシャンT氏の実家で、全国からの支援物資仕訳をしてるところだった。エイトマンパパはプロのミュージシャンなのでこのあたりの人脈では顔らしく、赤ん坊グッズ(ミルクとか紙おむつとか)を受け取っては誰々は大丈夫だった〜なんて情報交換していた。そういえば5年前の今ごろ僕は縁あって南相馬で同じような仕訳作業してたことを思い出した。まさか5年後に自分が被災地に住んでるだなんて想像もしてなかったけど。
渋滞が続いていた
 帰り道、エイトマン一家のアパートに寄ることにした。うちから歩いて行ける距離だけど、やはり平屋と高層階ではまったく様相が異なっており、部屋の中はちょっと手が付けられないほどの破壊されっぷりだった。それにしてもよくぞ生きてたなあ、というのが実感。これじゃ車中泊するしかないと僕もそう思った。ちょうど大分からインターネット回線業者さんが来ていて復旧作業を行っていた。気持ちの良い若者たちだった。大分も地震で大変なのに帰ることもなく熊本の復旧に回っているという。家で眠れない人たちで溢れている。

高層マンションはさぞ揺れたことだろう
 7階まで上がってみた。住み慣れた町を見下ろすとブルーシートで真っ青だった。かといってそれだけで珍しいわけではない。毎年やってくる台風の中には凶暴なやつも混じっていて、数年に一度は屋根の景色が真っ青になることがあるからだ。でも今回の地震は台風と違って、いつ次の号がやってくるか分からないし、秋が過ぎても冬が過ぎてもやってくるかもしれないという性格を抱えている。適切な喩えとは思えないが、そんなところだけは5年前の福島原発への不安感に少しだけ似ているのかもしれない。
大きな施設は復旧が大変
 何件か取引先の歯科医院に顔を出してみようと自分の車に乗りかえて出かけることにした。まずホームセンターに行って洗濯機用の給水パイプを入手。知り合いの歯科医院の二階に設置していた自動洗濯機が本震時に倒れたらしいのだけど、断水解消とともにはずれたパイプから大量に水が出てしまい朝病院に来たら室内だけ水害被害に遭ったという話を聞き、とりあえず僕が対処することになったからだ。

このホームセンターも他のショッピングセンター同様、店内は立ち入り禁止だった。大きな商業施設はどこも天井や壁が崩落したりして再開できずにいる。平屋でコンパクトなコンビニがすぐに仕事を始めたのとは対照的に。それでも店員さんはいつもと変わらず物知りかつ親切でてきぱきと対応してくれた。部品をもって歯科医院にいくと院長やスタッフが笑顔で迎えてくれ、やっぱり地震の時にどうだったかなんて話に花が咲く。30分ほどで修理を終え、次に訪れた歯科医院ではちょうど院長一家が避難先から戻って来たところでこちらもひとしきり苦労話。三軒目は不在だったため今日はこれくらいにしとこうかと家に戻った。
夜になれば乾杯
 そして家に戻ると今宵も大宴会なのであった。昨日に比べるといくつか食べ物も増え、どこからか調達してきた酒類も増え、笑顔も増え、僕らは昨夜に負けぬ大騒ぎを始めた。エイトマンもギターや打楽器を持たせられると器用にリズムを刻み始める。僕が唄えば彼も何かしら声を出してくれて、この子がいつか世界的なミュージシャンにでもなる日が来たら「ヤツを鍛えたのは俺だけどな」とか言えるのかも、なんて。

20時47分、八代市で震度5弱を記録する余震が発生、すぐさまLINEグループで実家の無事を確認できたのだがしばらくはテレビのニュースに注意することになった。ここには友人家族が一緒にいてくれるし、八代の両親二人もこうしてSNSで繋がっているのだから先週のような「このあとどうなるんだろう」みたいな不安感は、ない。もうこれから何がこようと俺たちはやっていけるんじゃないかなって妙な自信がよぎっていた気がする(酒のせいかもしれない)。

断水が回復した
 そして21時を少し回ったとき、ご近所主婦より妻の携帯に電話が届き「うちは水が出たよ!」との報せ。恐る恐る蛇口を捻ると・・・・おおっ、ちょろちょろゴボゴボだけど水がでたー。まだ濁っていて飲めそうにないけど、この高揚感って何だろう。冷静に考えてみると断水してたのは僅か4日間に過ぎない。それでも僕らはまるでマッドマックス4みたいに水を崇めその魔力に傅くのであった(大げさか)。僕らはますますGetting Better!って感じになってきた。

僕らは仲良し
昼の温泉施に入り損ねた妻はとにかくシャワー浴びてみると浴室に向かっていった。僕らはもう飲めないくらい飲んでるのにまた新しい缶ビールを開けてさっぱりした妻と乾杯の気勢を上げてギター弾いたりコンガを乱打したりしている。ふと和室を見るとエイトマンと柴男が10年来の友人のごとく仲良くいちゃついているのだった。

9年前にこの家を建てた時、自分たちの収入にしては贅沢に過ぎる気もしたし、同世代の設計士さんときたら現場の職人さんから「基礎のふとかー、柱・筋交いも多かねー」とか言われ続けてたくらい頑固な男で費用も激安とは言えなかったけど、こうして今回の地震の後に小さなオアシスになれたことですべて報われた気がしない?なんて夫婦でひそひそ話し合ったことをよく憶えている。

コメント