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熊本地震の記録-2-2016/4/15大阪から戻りくつろいでいたら深夜に本震が来た

2016年4月15日金曜日、大阪から熊本へ戻る。深夜に本震。
ホテルのテレビで地震報道を見る
 目を覚ましたら朝5時だった。つけっぱなしだったテレビではどのチャンネルでも昨日の地震を報じている。ドローンを使って撮影された益城町の崩壊度合いはちょっとこれまでにみたことのないレベルのものだった。熊本空港では午前中すべてのフライトがキャンセルされたとも伝えられていた。期せずして昨晩取った14時半の便がもっとも早く帰れる手段となったらしい。


軽く朝食を食べた後、部屋で9時頃まであちこちにメールの返事を送ったり少し仕事したりした。本来なら大阪にもう一泊したあと高知へと移動し、合同例会ミーティングの議事進行をする予定だったのだ。関東に住むパートナーが「自分が高知へ行きます」と申し出てくれ僕は行かなくても良いことになった。他に仕事が入っていたはずなんだけどいろいろキャンセルしてくれたみたいで感謝するよりほかない。といってもまだこの時点ではいったん熊本に戻って明日朝高知に入るという選択肢を捨てていたわけではなかったのだけど。
9時半、江坂駅ちかくのメーカーさんを訪問し、ちょっとした説明会を開催。話題はもちろん地震のことに走るのだけどもう終わったことだと思っていたからどうぞご心配なく、という感じだった。その後誘われた立派な中華料理店でフカヒレ丼という高級どんぶりをご馳走になった。大学の先輩でもある社長からはお見舞いまでいただいてしまって恐縮した。
伊丹からプロペラで熊本に戻る
 モノレールで伊丹空港まで移動し、ボンバルディア機に乗り込む。吊革が必要なくらい熊本行きの乗客で満杯かと思ったけどそうでもなかった。聞けば多くの臨時便が増発されているそうだ。僕みたいに予定を切り上げて熊本に戻る人、お見舞いや被災地支援に向かう人なんかもいるのかもしれない。機内では少し眠る。我らがプロペラ機は大分上空から九州に入り阿蘇、熊本平野、有明海、宇土半島から嘉島・益城上空を二度も旋回することになった。なんでも熊本空港滑走路に小型飛行機がパンクしてて一時閉鎖になっているらしいのだ。乗客の多くは窓の下を食い入るように見つめていた。

阿蘇山のカルデラを見下ろす
別府から九重、阿蘇の光景を見下ろしているとここが強烈な火山国であることをいやがおうでも意識することになる。カルデラ、火口、溶岩台地などで形成された九州という島は安定している期間の方が珍しいくらいなのだ。空港に小型機がパンクしているとの報せで我らがプロペラ機は熊本上空を2回ほど旋回することになった。後になって思えば僕らが見回った地域はその夜の本震でさらに大きな被害を受ける場所なのであった。でもそんなことを知るわけがない僕はただ呆然と雄大な景色に感動さえしながら見入るばかりだった。

益城総合体育館、手前は渋滞。
熊本空港へとアプローチし始めると僕の座っていた席から見える南方に被害の大きかった益城町の町並みが見えた。屋根のブルーシートが目立ち、幹線道路が渋滞しているのは確認できたが今朝テレビで見たような激しい家屋の崩壊まではわからなかった。それでも毎年の台風被害とは少しばかり異質な、心がざわつくような妙な感じを受けたのは覚えている。後で気がついたけど写真には益城町総合体育館の特徴的な屋根も写っていた。
自衛隊緊急支援車両が走る

空港までは妻と柴男(雄犬13歳)が迎えに来てくれていた。車中は当然地震の話ばかり。窓の外にはたくさんの自衛隊の救援車両が走り、景色とは裏腹にいまが非常時だと言うことを意識させられる。それでも第2空港線は特に被害も無さそうで順調にながれていたし、近所の家々にもさほど大きな被害はなさそうだった。僕らの家は被害のひどかった益城町から直線で3kmもない東区にある。10分も散歩すれば益城町内に入ってしまう近さだ。

仕事場の本棚は少し乱れた程度
それでもこんなに差があるということは今回の断層地震の性格を示しているということなのだろう。ともかくも家も仕事場も報道されてたほどの被害がなくてほっとした。左の写真は2階にある僕の仕事場だけど本棚の本が一部落ちた程度だった。もともとそんなにキレイに整理整頓されてたわけでもないので、地震後と言われなければ気がつかない程度かもしれない。

大阪土産の餃子で夕食
夕方になり、大阪空港で買ってきた点天の餃子で夕食を始めた。テレビのニュースを見ながらもこれでもだいぶ余震は収まってきたよ、とかもしこの地震が一週間早く来てたら4月9日のSoul is Backのライブも中止になってたんだろうなあとか、いやいや一週間前だったら4月9日だから地震の時間はスタジオで練習してたはず、アンプ類が崩れて怪我したり家に帰れず孤立したりしてたかも、なんて冗談も。

ブライアン・ウィルソンは諦めた
そういえば今ごろ大阪にいたら元ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンコンサートを観ているはずだったのだ。Pet Sounds完全再現コンサート。でも僕の席は空席になっているはずだ。こればかりは仕方がない。後で気づいたんだけどもし無理してコンサートを優先してたらそれから数日間熊本に戻ることはできなかっただろう。家族にも自分自身にもそれは耐えられなかったことに違いない。僕の選択は間違っていなかったのだ。

和室で寝ることに。3にんで。
夜は和室で寝ることにした。いつもの寝室だと少しだけ高台になっている裏手の住宅が万が一崩れてきたときに危険だと思ったからだ。なぜか柴男までが一緒に寝る気満々で布団に入ってきた。時刻は午前一時前くらい。空港から帰ってしばらく仮眠した僕はまだ眠くならなかったのだ。妻も話したいことが山ほどあったらしい。それでも1時過ぎには電気を消して布団にくるまった。寝つこうとする頃に緊急地震速報が鳴った。

本震直後、ご近所さんが集合。
速報が鳴り、すぐに地響きがしたのを覚えている。これは大きいな、と直感的に思った。すぐに揺れは大きくなりまるで建物全体が咆吼しているような異様な轟音に包まれ、左右の揺れはいっこうに収まる気配がない。怯える妻に大丈夫、大丈夫、この家は大丈夫と繰り返し伝えた。二階で何かが倒れる音がした。食器が割れる音がしてその瞬間電気が消えた。どれくらい揺れ続けたのだろう。それでも揺れは収まったようだ。

二階の仕事場はこんな状態に
iPhoneのライトを起動して玄関まで歩く。ドアを開放して逃げ場を確保した後キッチンをみたら透明な硝子の破片が散乱していた。靴を履いて僕らはとりあえず家の外に出た。昨日のうちに妻が用意していた避難グッズ満載のバッグと柴男はクルマの中へ。
すでにご近所さんが集まっていて口々に今のは昨日の地震より大きかった、と興奮していた。一月ほど前に新築して引っ越してきたばかりの向かいの夫婦は臨月の奥さんを車に乗せ、ご主人はスマホのワンセグでニュースを確認していた。聞けば彼は地震工学の専門家だという。

一階のキッチンも多少の被害
僕らはとりあえず電線が落ちてこない空き地に集まり、次から次へと鳴り続く緊急地震速報の不協和音と実際の揺れに耐え続けた。真っ暗な空に轟音が響き、自衛隊のジェット戦闘機が飛んでいく。まだ顔を見かけないご近所さんを訪ねては無事を確認する。誰かがガス臭いと叫び、確かにそういえばガスの匂いがする。プロパンボンベが倒れていたとの報告で元栓を切ったところで匂いは解決。僕はいったん自宅に戻り配電盤のブレーカーを落とす。それを見ていた近所のご主人、自分の家もブレーカー落としたいがやり方が判らないってことで僕も同行したり。

警報が鳴るたびテーブルの下で過ごす
そんなこんなで一時間ほど経過したろうか。誰かが「街灯が点いている」と指摘したことで電力が復活したことに気づき、ブレーカーをあげてみると無事に電気が戻って来た。たったそれだけのことなのにこの安心感はすごい。テレビも見ることができた。それでも余震はこれでもかと続き、僕らはそのたびにキッチンテーブルの下に隠れることに。なぜか柴男も自主的に付き合うのがおかしかった。それにしてもいつまで続くのだろう。テレビでは八代で火事が起きたと中継している。実家の近所のような気がする。LINEグループで確認したらさほど近いわけでもないとのことで、両親は落ち着いていた。それにしても今年1月に僕のお古のiPhoneを渡してLINEグループを作っていて本当に良かった。電話が制限されているのでお互い心配しまくったことだろう。

流されたのは阿蘇大橋だった
夜が明けてくるにつれニュースでは阿蘇地区での甚大な被害を伝え始めていた。阿蘇大橋が流されたらしいという報道には心底驚いた。ヘリからの中継映像だけでこのあたりの大きな橋が、ということしか判らなかったのでGoogleマップで調べたらそれが阿蘇大橋だと判り、これはただ事ではないと思った。つづいて阿蘇神社の山門崩落も伝えられた。僕らが結婚式を挙げた神社だ。

僕らが実感している以上に熊本は大変なことになっている。

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